ヤサブロバサをめぐる一考察

           高橋郁子 著

 

ヤサブロバサとは

吹雪の晩にやってくる人食い鬼婆、ヤサブロバサ

新潟県中部の魚沼地方では、吹雪の晩になると「ヤサブロバサが来て、悪い子を連れて行く」と言い、子どもたちが恐れていた。

他地域では子どもを守る妙多羅天女として信仰されていたり、仲人をしたりと、伝承も多様で、ネコマタの伝承とも類似する。

 

        
寶光院の妙多羅天女と婆々杉
 

 婆々杉は、樹齢約一千年といわれ、樹高40m、幹周10mの杉の巨木。この木に妙多羅天女の伝説がある。
 寶光院に伝わる縁起によると、承暦3年(1079)、弥彦神社の造営工事の時に、上棟式の奉仕の事で、大工と鍛冶が争った。負けた鍛冶匠黒津弥三郎の母が、くやしさのあまり鬼婆と化し、雲に乗って悪業の限りをつくしたという。(大工職は渡辺氏という)
 保元元年(1156)、典海大僧正が改心させ、神仏・善人・子どもの守護に尽くし、妙多羅天女となったという。

 

紫雲山龍池寺寶光院

建久6年(1196)8月8日、源頼朝の発願によって大日如来を本尊として開基。明治維新までは住職が社僧(神社に使える役名)として出仕したこともあった。

寶光院に伝わる「妙多羅天女略縁起」

  

悪人が死ぬと引っ掛けられたという伝説がある婆々杉

 

妙多羅天女の御開帳は、毎年10月15日に行なわれている。
木像の妙多羅天女像の体には、大量の真綿が乗っている。これを紙で包み、参拝者に授けている。
真綿は子どもの百日咳に効くといわれ、一時綿の収入でしのいでいた時期もあるという。
 昭和3年に地元の新聞社が行なった、遊覧地選定投票に入賞したという賞状。寺は、以前から寺としての経営の道を模索していた。
 妙多羅天女像2体。かつて、出開帳のために作られたと思われるもの。
 前住職が「紛らわしいし、粗末にもできない」ということで、買い求めたものもある。
 
   

 

     

子孫の家系 黒津家

 

伝説の中に登場する「黒津弥三郎」は、実在したと思われる人物であり、御子孫の黒津家は当地に在住している。
 弥彦村の教育委員会で出している小学生向けの副読本にもヤサブロバサのことが載っているため、当地では誰もが黒津家のことをご存じで、黒津氏は名誉なことと思っておられる。
 黒津家には、妙多羅天女の掛け軸があり、この掛け軸はお盆のときだけ床の間にかけられた。もともと黒津家は弥彦神社の社家であり、弥彦神社に仕える家であった。弥彦神社周辺には社家が多く、このあたりの家に仏壇はない。埋葬も、寺の墓地に埋めるのではなく、持ち山の山林に一人ずつ土葬していたという。黒津家も山林に埋葬していたが、墓参りに行くたびに80本以上の榊を用意するのが大変なので、前当主が亡くなった時に墓をいくつかまとめたという。
 
 

弥彦神社と弥彦山

 

 弥彦神社の祭神は「天香具山命」である。一説によると、これは、江戸時代の神官高橋光則が「櫻井古水鏡」という書物をまとめたときからだという。
 この書物によると、弥彦の神が熊野から臨幸の時に印南(いな)鹿(じか)の神という随身がおり、忠義無二の人だったので、随身門にはべるという。この印南鹿の神に二人の子どもがおり、その一人の子の子孫が黒津家である。「櫻井古水鏡」によると、弥三郎の婆は、「鍛冶職が棟上式を2番に務める」という決定に憤慨して木の根元で餓死し、時々木を鳴動させて人々を恐れさ
せたという。それで木像が造られたのだという。
 寶光院は神宮寺・真言院・龍池寺という三つの寺が廃仏毀釈の時に廃寺になった寺をあわせて作った寺で、位置もずいぶん移動している。現在は競輪場に隣接している。

        

  弥彦神社。後方には弥彦山。     

  

神社前には神社関係の仕事をする社家が並ぶ

 

新潟県内のヤサブロバサ

 

1 柏崎市 

弥三郎の家(善根の久木太部落)の人のよい老婆が、ある日突然性格が変わる。老婆の悪業が日に日につのるので、近所の人たちは「鬼婆」と呼び、弥三郎は心を痛める。弥三郎が夜おそく帰宅する途中でに襲われたので木に登ると、狼は「頭の弥三郎婆を連れてこよう」と言って鬼婆を運れてくる。弥三郎が鉈で鬼婆の額を切りつけると、鬼婆は狼たちと逃げる。弥三郎が帰宅すると、老婆は「かぜをひいた」と言って額に鉢巻をして寝ている。翌朝、妻が「婆が赤ん坊を食っている」と言うので、弥三郎は「子を食うやつは親ではない」と言って老婆に切りかかると、老婆は鬼になって破風からとびだし弥彦山の岩穴にたて寵る。弥三郎が老婆の部屋の床板をはぐと、老婆は鬼に食い殺されていた。弥彦の妙多羅天はこの弥三郎婆を祭ったものだ。

2柏崎市八石山下善根村

久木太というところにいた弥三郎婆が山犬や狼などを手下として、漆山で子供やおとなを食ったりしていた。ある年の十一月の末、弥三郎が柏崎からの帰りに漆山にさしかかると、恐ろしい婆が山犬や狼を連れて追ってくる。弥三郎が大木に登ると婆も登ってくるので、鉈で婆の額をなぐりつけると、婆は逃げ去る。弥三郎が帰宅すると、母は「柱で額を打った」と傷をしている。子供の姿が見えないので聞くと、「味噌かと思ってなめた」と言い、鬼の正体を現わして破風を抜けて八石山へ逃げる。その後婆は岩屋に住み、赤い日傘や衣を見るとうれしがって棺を奪い、死体を食った。善根村飛岡の浄慶寺の住職が青い日傘と衣とに改めたので、その後は棺を取られなくなる。それでこの寺では、今でも青い日傘と衣を使う。婆はその後西蒲原郡弥彦のほうへ飛び去ったので、そこに婆を祭った堂を建てた。

3柏崎市折居北向

久木太村の男がにねらわれ木の上に逃げるが、一匹の狐が上がってくるので鉈で手を切り落として家に帰る。翌朝母親が「鬼の手を持ってきたか」と息子に聞くので、息子は戸棚をあけて手を見せると手をつかんでとび去る。婆は人を食べるので、村中の人が退治に行き、殺して二か所に埋めると、「いっしょになりたい」と毎日地震をおこす。占者が占うと、「死体を掘り出して、弥彦山へミオタロウ婆さんとして祭ればよい」ということなので祭る。婆の家の人が寝床の下を見ると骨がたくさんあった。婆が煙出しから逃げたのでその家には煙出しがない。

4 西蒲原郡分水町(旧国上村)

 弥三郎という猟師。猟に出て何者かに首筋を掴まれその腕を斬る。家に帰ると母は病気で寝ている。翌朝母はいない。寝間から血跡をたどって行くと怪物を斬った処までつづく。弥三郎は母が鬼女であったことを知る。

5見附市葛巻(旧南蒲原郡蒲巻村) 

弥三郎という綱使いが田んぼで働いているところへが現れたので、弥三郎は逃げて松の木に登る。狼は次々に肩の上に上がるが届かず、一匹が「弥三郎婆さんを頼もう」と言って走っていく。弥三郎が不思議に思っていると、西のほうから黒い雲が来て弥三郎を包み、雲の中から手が出て弥三郎の首筋をつかまえたので弥三郎は鉈でその手を切る。弥三郎は狼が逃げたので落ちていた腕を持って家に帰り、婆に「鬼の腕を取ってきた」と一言うと、うなって寝ていた婆は鬼婆の姿になり、腕を切り口につけて逃げたので婆の床の下を見ると、鳥獣や人間の骨があった。鬼婆が弥三郎の婆を食って婆に化けていたのだ。

6古志郡山古志村虫亀

正月前の荒れる晩、やもめの男が住む家に、婆が入ってきて火にあたらせてくれという。話をしているうちに、「おう、こんちは、嫁がいねねかや」といい、火にあたった礼に、嫁を世話すると言って去る。ある日、男の家の前に立派な駕籠が落ち、中に美しい娘が入っている。大阪の鴻池の娘で、嫁に行く途中にさらわれたという。娘はそのまま男の嫁になる。そのうちに鴻池から迎えが来るが行かずに留まったため、鴻池から蔵屋敷を建ててもらい、安楽に暮らした。

7上越市東本町

 弥三郎婆が、孫の頭を剃っていて出た血をなめて味をしめ、「食いたいほどかわいい」と言い、夫婦が「食えるなら食え」と言うと、孫を食う。山へ逃げた弥三郎婆は鬼となり、山越えして年貢を納めにいく村の使者を食い殺す。困った村人は、村一番の貧乏人の男の子を使者とする。婆が男の子に重箱いっぱいのおはぎを持たせたので、その子は弥三郎婆におはぎをやって難をのがれる。その男の子が成人すると、弥三郎婆はおはぎの礼にさらってきた鴻の池の娘を男の子の嫁にする。鴻の池では捜し出して連れ帰ると、そのつど弥三郎婆がさらっていくので、鴻の池二人を結婚させ、男の子の家は裕福になった。

8中頚城郡吉川町大賀

 おやじが浦川原の川むこうのアリシマで木に登ってうるし掻きをしていると日が暮れ、山婆が来て、おやじをつかまえようとする。おやじが山婆の腕を切り家に帰ると、母親の婆が苦しんでいたので、切りとった腕を出すと、婆はその腕をつかみ、「俺の腕だ」と言って高窓からとび出す。それ以来、その村では家に高窓を作らなくなった。

9柏崎市付近

  猟師の子供がいなくなるが猟師の母親は平気でいる。猟師が山小屋にいると大きな手がつかみかかってきたので、山太刀で切り落とす。窓からとび出して逃げる。その後も付近の子供が行方不明になるので、堂を建て婆を祭ったのが弥彦神杜の裏の妙多羅天である。

10東頸城郡安塚町

 牧野の百姓弥三郎の母親。夜になると床下に隠した死体を食う。手を鎌で切る。鬼婆は弥彦の宝光院で死ぬ。家では煙出しをつけない

11十日町市十日町

 弥三郎の家の婆が孫の守りをしていて、あまりのかわいさに食べてしまい、それからも子供を食べて鬼婆になり、国上山に住みつき、子供をさらう。与板という若者が稲刈りをしているのを弥三郎婆が見つけて食いにくるが、若者が「はだしでは冷めたいから」と草履をくれるので食えない。若者には嫁がないというので、弥三郎婆は大阪の鴻池の娘が嫁入りしているのをさらって帰り、若者の嫁にする。子供が生まれ鴻の池に里帰りし、お金をみやげにもらって、若老は大金持ちになり、大阪屋と名づけた。

* 日本昔話通観10 新潟 / 同朋社 / 1984 による。

 
  新潟県南魚沼郡六日町麓には、弥三郎婆の腰掛岩とよばれる岩があり、観光地図に載っている。この岩は麓地区の子安延命地蔵尊大菩薩の地蔵堂に登る石段の前にあり、巨大な自然石であった。地蔵堂は無人だが、安産や、子どもの健やかな成長を願うための奉納物や、母乳が良く出るように奉納するのか、乳袋などがたくさん奉納されていた。弥三郎の腰掛岩には次のような案内板が設置されていた。

 「弥三郎婆さ腰掛岩の由来」
 昔大崎村の某家に今から330年くらい前、一人の老婆があった。12月の寒い晩、この婆さんが生まれて間もない孫の弥三郎を抱いて子守をしていた処が、余りの可愛さになめているうちに可愛さあまって遂に食べてしまった。人の肉を食った為め、忽ちのうちに面相も変り鬼となって窓から風に乗って弥彦へ飛んだと言う。しかし元々心優しい人であり、自分のした事を深く悔いその罪の恐ろしさに心休まる時とて無く、悩みぬいた末仏門に帰依し世の中の不幸を救わんと心定め菩提寺である真浄寺に行き悔い改め安堵の信心を頂き其のお礼に万年蝋と豆柄の太鼓外品々を寄進して嵐に乗って飛び立ったという。万年蝋燭とはいくら燈しても少し残しておけば翌日は元通りになっているという蝋燭。豆柄の太鼓とはこの婆さんでなければ音が出ないという何れも婆さんの行を重ねた念力に依ったものだという。
 12月8日はお寺の常例の行及び坐禅を行なう日でもあり其の後は12月8日になるとお礼ながら行にお寺に来たというが元禄4年12月8日、真浄寺の火災の折り、婆さんが居合わせたため、寄進の品は持ち去ったという。本岩は弥三郎婆さの通る時に腰をかけて休んだ岩と昔から伝えられているが五城土改で区画整理のとき旧道の麓―水尾間の大平腰道端の現在地より約200mほど北方にあったものを現地に移したものである。一説には其の後婆さんは世のために尽くし後の世に妙多羅天として弥彦に祭られたという。往時は子どもが悪さをしたり長泣きをすると弥三郎婆さが連れて行くぞとおどかしたりおしいたりするのが広く一般に行なわれていた。この土地では12月の大嵐を弥三郎婆さが子どもを食べて嵐に乗って去った時の吹き荒れにちなんで「八日吹き」と言う。                    麓老人会 
 

 
 

広神村では弥三郎婆で町おこしを考えているグループもある。弥三郎婆の名を冠した国道沿いのそば屋

 

 

 北魚沼郡広神村では次のような伝説が伝えられている。
弥三郎家は代々弥三郎の名を襲名する猟師で、あるとき、弥三郎は吹雪の山に行って帰ってこなかった。嫁は切なくなってあとを追って死んでしまった。あとに残された婆さは、残された乳飲み子を抱えてもらい乳をして歩いたが、孫はひもじがって泣いて死んでしまった。婆さが孫を食っているところを見た村人は、婆さを村から追いだした。婆さは権現堂の岩穴にすんで、白髪のざんばら髪に口が耳まで裂けたおっかねぇ鬼婆になって、吹雪にのって空を飛び、村の子どもをさらっていくという。この婆さは妙多羅天女となったとも、弥彦の弥三郎婆とは違う婆さだともいわれ、弥彦のヤサブロバサと友だちだとも言われている。
このほかに、小千谷市金倉山にも婆さがおり、小千谷市の照専寺で改心したという。

 

全国的な分布と伝承

 

青森県(北津軽郡金木)

 馬方の弥三郎が夜中に宮の前でむじなに襲われる。弥三郎の婆という頭領の手を切る。弥三郎が腕を拾って帰ると、婆が「腕を見せろ」と言う。見せると、「おれの腕だ」と言って自分の腕に付け、一目散に逃げる。

山形県(米沢市大白布)

男が棒をついて雨に濡れながらあとをついてくる婆を連れて帰って泊めてやる。婆は感謝し、大阪の鴻池に嫁に行く途中の娘をさらって嫁にする。男は娘の持参金を元に金持ちになった。

山形県高畠町)              

 戦国時代、弥太郎という男が天女を妻にし、弥三郎という子が生まれる。弥太郎は戦死し、弥三郎は旅に出たまま帰ってこない。そのうち、嫁が死に、孫は百日咳にかかって死ぬ。天女だった弥三郎の母は悪鬼となり、軍資金を集めていたが、帰ってきた弥三郎はそうとは知らずに母の腕を切る。母は弥三郎に今までの話をし、雲を呼び風を起こして越後の弥彦へと飛ぶ。

福島県(犬沼郡金山町沼沢)

弥三郎が山へ仕事に行き、狼を集めた山んぱに襲われ、腕切り落としす。家へ帰と母親が「これこそ、おれが腕だ」と、破風を蹴破って逃げる。腕をくっつけるため、天寧寺の湯に入る。十二月の八日は荒れ日で、腕を湯に入ってくっつけ、腕を持ってから飛ぶ。それで、目がたくさんある豆とおしを魔よけとして、門に下げる。

石川県(石川郡玉川村)

 元禄初期の頃、吉村の中下に又右衛門という八十歳余りの爺が婆に死別して一人で募らしていると、婆に化けてやってきたが後妻におちつく。婆が毎晩夕食後に出かけるので不審に思った爺が後をつけると、鹿島神杜の境内で猫が大勢集まって、歌いながら踊っている。ある日、西念という僧が、この声を聞いて様子をうかがうと猫が追いかけてきたので、西念は木に登る。西念が懐剣で切りつけると、猫は落ちて逃げ去る。血の跡をたどると、中下の爺の家に続いている。西念は爺に生杉の葉を持ってこさせて家の戸を閉めていぶすと、婆は猫の姿に変わって煙出しからとび出し、黒雲に乗って西空に消える。猫の行先きは那須の北の湯。吉村の者が行くと変事が起こるので北の湯には行けない。

長野県(下水内郡栄村泉平)

富山の薬屋が毎年弥彦へまわって行って、弥三郎という人の家に泊めてもらっていたが、弥彦へ行く途中の峠で山犬が襲ってきたので木に登って逃げると、山犬が「手におえないから、弥彦へ行って、弥三郎頼んでこい」という。すると、でっかい赤いネコが上がってくる。薬屋は猫の手を切る。一週間後に弥彦の弥三郎の家へ行くと、いつもいるお婆さんも、赤猫もいないので、家の人に聞くと寝ているという。薬屋が切った猫の手を出すと、その手をくわえて、寝間の窓をおっぱずして逃げて行ってしまう。逃げてから、村を荒らしたから、村中の衆が困っちまって、そうして、ネコが暴れて困るので、お上へ願って神社を建てたという。すると、ネコは出なくなる。そのネコは弥彦の弥三郎の家のネコで、今は神様になっている

長野県(小県郡武石村)

  山伏が越後の弥彦峠を通りかかると狐が昼寝をしているので、ほら貝をその耳に当てて吹くと狐は驚いて逃げる。急に日が暮れ、峠の下から葬儀の行列が来る。山伏が木に登ると行列は木の下で火葬をする。何かが木に登ってきて山伏の足を押えるので刀を振りまわす。行列の者は「弥三郎婆さを頼もう」と逃げ、やって来た駕寵の顔の丸い婆が登ってくる。山伏が刀で切りつけると落ち、周囲が明るくなる。山伏が弥三郎の家を訪ねると、「婆が加減が悪い」というので、「祈祷してやる」と言って婆を殺す。婆は正体を現わし、三毛猫となる。床の下に婆の骨があり、いなくなった飼い猫の三毛が婆を食って化けていたとわかる。

 

鬼・鬼女との関係

 

鬼…信仰の山を転々とする。

 ヤサブロバサの信仰の中心となっている弥彦山系には、国上山があり、国上山の国上寺では酒呑童子が稚児をしていた。酒呑童子は国上寺から弥彦神社へ書簡を運ぶ役を務めており、弥彦山系にある稚児道を通って、弥彦神社へ行き来していた。酒呑童子は国上寺を追われてから、黒姫山、戸隠山、比叡山を転々として大江山に至っている。

 ヤサブロバサも鬼となって追われてから、伝説では佐渡の金北山、古津(新津市)、加賀の白山(石川県)、越中立山(富山県)にも飛行して悪業の限りを尽くしたという。

手を切られ、取り戻して破風から逃げる。

 退治しようとした人物に近づき、切られた手を取り戻して逃げる、という点。これは、渡辺綱に手を切られ、姥となって手を取り戻した茨木童子の話と通じるものがある。破風から逃げるというのは何を暗示しているのだろうか。

安産や子育ての信仰が集まる。

 子どもを食べた恐ろしい人物でありながら、改心して子どもを守る妙多羅天女として信仰を集めている。新潟県の頚城地方から石川県などに山姥伝説があるが、つねに幼子を伴い、遊んでいた。これは、長野県の諏訪大社の祭神とその母神が転々とした地とも重なり、諏訪の母神は安産の神となっている。 孫を食す、または殺すという点は、福島県に伝わる安達が原の山姥の伝承にも通じるものがある。高畠の弥三郎婆伝説は折衷型のようである。

                       参考文献* 日本昔話通観 (1981〜)

 

 猫との関係

 

南魚沼郡塩沢町の雲洞庵には、火車落しの袈裟という袈裟が伝えられている。火車は葬式の列を襲う猫又で、黒雲に乗ってやってきて雲の中から手を伸ばして棺の中から死体を奪っていく妖怪である。この事件を「北越雪譜」で報告した鈴木牧之は、滝沢馬琴の随筆集に「雷獣」の絵を寄せている。これは、雷になると喜んで走り回る獣だといい、どことなく猫に似ている。

「猫多羅天女の事」(佐渡には越後と違う妙多羅天女のいわれがある。)

同国(越後)弥彦のやしろの末社に猫多羅天女の禿とてあり。此はじめを尋ねるに、佐渡国雑太郡小沢といへる所に、一人の老婆ありけるが、折ふし夏の夕つかた、上の山に登りて涼みけるに、ひとつの老猫きたりて、ともにあそびけるが。砂上に臥まろびて、さまざまとあやしきたはむれをなせり。老婆もうかれて、かの猫の戯れにひとしく、砂上に臥転びて是を学びしに、何とやらん総身涼敷、快よきほどに。又翌晩もいでて此業をなしてけるに、又化猫来たりて狂ひ、ともにたはむれつつ、斯くのごとく数日におよぶに、おのづから総身軽く、飛行自在に成りて化通を得て、天に溯し地とはしり、たちまちに隅目(ますみだ)ち、はげかしらと成り、毛を生じ、形成すさまじく、見る人肝を消して噩(がく)に絶たり。かくして終に発屋にて虚空にさる。まのあたり鳴雷して山河も崩るるごとく、越後の弥彦山にとどまり、数日霊威をふるい、雨を降らしぬ。里人時に丁(あた)って難渋するにより、これを鎮めて、猫多羅天女と崇む。これよりしごとに一度づつ佐洲に渡るに、此日極めて雷鳴し、国中を脅(おびや)かすこそ情(つたな)き景迹なり。 (「奇談北国巡杖記」鳥翠台北 著)文化三年頃

 

風との関係

 

風の三郎さま

新潟県南魚沼郡では、風の神様が信仰されている。神様は「風の三郎さま」と呼ばれている。お祭りは八朔、9月1日に行われているところが多い。二百十日や八朔の風は、農作物の生育を大きく左右する。人々は風の三郎さまに願い、風が適度に吹くことを祈ったのだろうか。

師走八日。八日荒れ。吹雪。風とヤサブロバサ

 ヤサブロバサは、風の吹く日にあらわれる、と伝承されているところが多い。風に乗ってやってくる、飛行自在、とも言われている。具体的に、風とヤサブロバサの関係を考えてみる。

「佐渡の水津村野浦の背後にある二つ才の神という高い頂に毎年11月になると、弥三郎婆が越後一の宮を祭る弥彦山から暴風雨を土産に持って佐渡に渡って来ると今に伝えている」(高志路7-1「佐渡の弥三郎婆」青木重孝)

伊藤治子氏は、(新潟産業考古学会26.27号「佐渡の穴窯と弥三郎婆」)で、佐渡に自然通風による古代の製鉄炉が稼動していたと推測し、弥彦山から吹き降ろす風を利用していたと仮定する。そして弥三郎婆の暴風雨こそ、製鉄に関与したものには土産と呼ぶべき待望の風であったとしている。そして、その穴窯の終焉により、ヤサブロバサが妖怪になってしまったと仮定している。

 この説をとれば、弥彦とヤサブロバサの関係がうなづけるような気がする。

石川県金沢市大野町では毎年7月25日、26日に行われる日吉神社の礼大祭で、「弥彦ばば」の通称で悪魔祓いが行なわれている。網代笠をかぶり首から賽銭箱を下げた先導が錫杖を打ち振り読経を唱え、白布で頭を包み般若、天狗、翁の面をつけた三人の術者の後に法螺貝、笛、太鼓の一群が五彩の旗を押し立てて続き、術者が武具を持って悪魔を払うしぐさを行う。(昭和36年に金沢市無形民俗文化財に指定)

 
 

ヤサブロバサの性格/今後の研究こと

 

鍛冶屋の母

風に乗り飛行する鬼女

巨木の枝にとどまる魂

信仰厚い婆

猫・狼との関連

子どもを守る

仲人をする

弥彦信仰との関係

 

 以上が、今思いつくヤサブロバサ研究のためのキーワードである。

 ヤサブロバサは多種多様な性格を持ち、それぞれにまつわる伝説も付随している。それらは、一見バラバラな伝承のようで、つながりがないようにも思えるが、最終的に弥彦に戻ることなど、関連性もみられる。

 ヤサブロバサの伝承が、なぜこれだけ広がりを持って伝えられていったのか、現在の私の調査ではまだ結果を出すことはできない。ヤサブロバサは、今でも広い範囲で多くの世代の人に伝えられ、信仰を集めている。今後も可能な限り事例を集め、ヤサブロバサの伝承の意味を考えてみたい。

 

 2003.10.5  日本民俗学会第55回年会ポスターセッション参加発表

 

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