鳥屋野ものがたり

 

  
鳥屋野潟の大亀

鳥屋野潟と三平池には畳八畳くらいの大きな亀がいたといわれています。
池の中の思わぬところに島ができたように浮き、舟を乗り上げたものもいるそうです。

鳥屋野潟のほとりには、ミノを光らせるミノムシという妖怪がいました。


鳥屋野藤巻池には美しい人魚がいて、月夜の晩には歌を歌っていたそうです。
そんな不思議な地、鳥屋野の物語です。



親鸞聖人と逆さ竹

 平安時代の終わり、源氏と平氏という二大勢力が、激しく戦う争いの時代がありました。
みんなは、心細い日々を送っていて、仏教に心の安らぎを求めていましたけれども、本気で世の中を救おうとするお坊さんが少なく、政治と結びついて出世しようとするお坊さんがたくさんいました。

 

その中で、法然というお坊さんが、「なむあみだぶつ」と唱えれば救われるという浄土宗の教えをとき始めました。
浄土宗の教えは誰にでもわかりやすく、すぐに広まりました。
力のある人たちと結びついているお坊さんたちは、人々をまどわすと言って浄土宗を非難し、承元元年(1207)、法然は讃岐(香川県)に流されました。
法然の弟子の、親鸞聖人という人は、越後へ流されました。
親鸞聖人の教えは法然の浄土宗を進めたもので「浄土真宗」と言いました。

越後に流された親鸞聖人は、県内各地で浄土真宗の教えを説きました。
親鸞聖人は、身近にあるもので仏教を布教しました。
片葉の葦(上越市)、逆さ竹(新潟市西方寺)八房の梅(京ヶ瀬村梅護寺)、
数珠掛桜(京ヶ瀬村梅護寺)、繋ぎ榧(田上町了源寺)、三度栗(阿賀野市孝順寺)、
焼鮒(新潟市)
これらは親鸞聖人の七不思議といわれています

 親鸞聖人は鳥屋野にも草庵を建てて布教をしていました。
始めは誰からも相手にされなかったため、
「この里に親の死したる子はなきか
  御法の風になびく人なし」
と和歌を詠んで手にしていた竹の杖を土に刺しました。
しばらくして竹の杖は根付き、竹やぶになりました。

人々は驚いて親鸞聖人の教えを信じました。
杖は逆さに刺されたまま根付いたので、「逆さ竹」と呼ばれ、
親鸞聖人の越後七不思議の一つとなりました。




順徳上皇と鳥屋野六階節

平安時代、平氏と源氏の戦いは終わり、平氏は敗北しました。
それまでは、皇室が政治を行っていましたが
その後は、源氏が政権を握り、源頼朝が鎌倉幕府を開きました。

承久元年、源頼朝の二人の子どもがなくなり、源氏の血筋が絶えました。
後鳥羽上皇は政治の権力を朝廷に戻そうと多くの兵を集め、
代わって政権を握った北条義時を討とうとしました。
これを承久の乱(1221)といいます。

上皇の軍は鎌倉幕府の大軍に破れ、
後鳥羽上皇は隠岐の島(島根)に流されました。
後鳥羽上皇の皇子の順徳上皇は、佐渡に流されることになりました。

順徳上皇は勉強熱心で天皇家の決まりに詳しく、
決まりごとをまとめた本を書いたり、
歌人としても有名で、歌の研究書を書いた人でした。

順徳上皇は、佐渡に渡る前に
ひそかに親鸞聖人の布教の地である鳥屋野を訪ねました。
鳥屋野の人たちは、順徳上皇を慰めるために
聖人から教えられた「鳥屋野六階節」を踊りました。

順徳上皇の従者はその踊りに京風の手振りを加えて踊りを改良しました。
上皇が佐渡へ渡る前夜の承久4年(1222)5月8日には、
村中の者が家から灯篭を持ち出し、鳥屋野六階節を踊って
上皇との別れを惜しみました。




今でも5月8日の鳥屋野神社の春大祭は「灯篭祭り」を行っています。
鳥屋野六階節は盆踊りとして西方寺で踊られています。

    おらが鳥屋野は住みよいところ  尋ね来やんせ 都人

    春はウグイス 夏ホトトギス 昔ながらの竹の園

    竹の御杖に枝葉が栄え 今は越後の七不思議