新潟縣が柏崎縣と合併する時に、縣名はこうして決定した?

   角力で解決      蒲原浄光寺老院 79歳

 

 
 
此話は余り突飛で自分にも稍疑わしい所もあるが、楠本縣令に信愛されて毎日の如く

親近していた故荒川太二氏が現在其場に臨席した時の事を、親しく私に聞かせたのだ

から事実談だと思われるが、それは新潟、柏崎と二縣に分かれていたのを新潟縣の一つ

に併合するに当たって之を角力で決したといふ物語りである。時は明治五年十二月、楠

本縣令来任後、初めての上京とあって同月十六日縣官二ツ橋氏、一等官中石氏それに

荒川太二、鈴木長蔵氏其他並びに鍋茶屋先代主人も加はって出発したが、縣官は駕に

乗り他の十人ばかりは雪中をゆっくり歩むのだから三日目に漸く柏崎着、富豪西巻氏

方に昔の本陣といふ格で泊り込んだが、さて其夜の事、一行到着と聞いて柏崎縣の権

参事其他の役人がご機嫌伺い旁々やって来たので、やがて酒宴といふことになった。

斯くて一同陶然たる頃、楠本は柏崎縣の役人に向ひ越後は地理上常然一縣になるべき

のに、旧藩の関係で両分されているのは宜しくない、我輩が当地へ来たを機会にお互

に周旋して一つ纏めたいと思うが、新潟に併せるのは貴公等が反対であろうし、柏崎

に併せるのは我輩が不賛成だ、この点が困るといひつつ暫く思案の体であったが、や

がて楠本は小膝を進めて、どうぢゃ、この問題を一つ角力できめて、勝った方に合併

と決しやう、角力できめることは古来其例もある、一つやって見やうといひ出した。

甚だ突飛な提案に驚いた柏崎縣の役人も一つは時めく楠本の御威光と一つは酒機嫌も

加はってただちに同意一決した。そこで寒中ではあったが裸体となり畳で仕切って西

東に分れ、楠本自身は股立ち取って行司を勤めた、然るに其結果は新潟側が大いに勝

ち、有無をいはさず柏崎を合せて茲に新潟縣となったのである。

(註)尤も新潟が勝ったのは行司の楠本が無理をして、新潟が勝つまで飽迄

   取らせたからだということである。



出典「新潟古老雑話」鏡淵九六郎編 昭和8年

★新潟古老雑話は、昭和8年当時の古老の語る話を鏡淵九六郎がまとめたものです。数多くの面白い雑話が載っていますが、真偽のほどが不明のものもあるようです。このお話も…どうなのでしょうね(^-^)