水と闘う人々。 (箇条書き版)
1.低湿地帯の生活
《低湿地帯の被害》 農地の様子や洪水について
@日本最大の河川信濃川の「下流低湿地帯」。中之口川、西川、ほかに潟がたくさんあった。
A低湿地帯とは
川の勾配がゆるいため、川が曲線、蛇行を繰り返し、自然堤防や潟、湖を作りながら平野を作っていった。
宮池(水戸際池)は洪水によって作られた池だ。
B低湿地帯とは
川の勾配がゆるいので、流れもゆるく、雪解け水や豪雨などで氾濫を繰り返した。
C低湿地帯には…一面に無数の潟があり、アシやガマが繁っており、水捨て場だった。
D降った雨は三潟(大潟、田潟、鎧潟)に集まり、排水しきれずに溜まり水になった。
E低湿地帯の溜まり水は「悪水」と呼ばれ、大雨になると田畑まで押し寄せてきた。
F水は農業用水として大切だが、一瞬にして生命や田畑、家、家財道具を押し流す魔物にもなる。
集落を守るために囲い土手や水蔵(地盤を高くした蔵)が作られたところもある。
G川の上流の人たちは水不足の時には水を独占し、多い時には下流のことを考えず放流した。
H川の下流の人たちは水不足では田が干上がり、過剰なときには洪水となった。
Iそのため、水によって地域間の争いが絶えなかった。
J洪水が起こると家はつぶれ、橋は流され、田畑は荒れ、復旧に時間がかかる。
K有名な明治29年「横田切れ」は7月22日午前4時、分水町の横田の堤防が切れたもの。
18,000fが泥海になった。
L横田切れで被害にあった人は避難小屋生活を強いられ、数千人の人が復旧に努めた。
Mしかし9月に再び切れ、復旧工事を行ったが10月に三回目の決壊。12月に復旧する。
N横田切れの時の大野と対岸の鷲巻村の対決。
O人びとは「鎧潟の大蛇が漆山の寺お講に参るので大雨になる」と言っていた。
P潟や沼には蛇や龍、亀などの主がいると信じられていた。
Q水の事故を恐れ、河童祭りをしていた集落もあった。
R水戸場の地蔵さま(明治18)は、柳作の堤防が切れた後に祀られた。
この水害時には寺地、立仏、鳥原等の泥水を落とすために寺地の大仙坊を払い切りした。
柳作の堤防が切れたときに、池田左五平家のおじいさんは蔵の屋根ごと、鳥原まで流され、お
ばあさんは家ごと亀貝まで流されて救助された。
Sかつては「田植えあって稲刈りなし」「腐れ田」「流れ田」という言葉があった。
2.治水・水と闘ってきた歴史
《治水方法》…湿地・川はどのように変わっていったか。
2-@ 三潟悪水抜と新川の誕生…西蒲原の悪水を日本海へ…
@-1 元文2(1737)、三潟の悪水(水害を起こす溜まり水)を日本海に放流する計画がもちあがる。
@-2 三潟の排水を西川から分離し、新川を作る計画が持ち上がるが、新潟町が反対する
@-3 説得や訴えの結果、長岡藩主の名で幕府に正式に三潟悪水抜工事願いを提出する
@-4 工事は大規模で珍しいものだったので、見物人や茶屋まで出現した。
@-5 天保8(1838)、新川が出来上がり、悪水が日本海に放流された
@-6 昭和に入り、三潟が次々に干拓され、田園地帯が広がった。
2-A 大河津分水の誕生…信濃川の水量を日本海に放流して調整…
A-1享保20(1735)、寺泊の人が始めて幕府に出願する。幕府、検分するが不許可となる。
A-2明治元年、水害で長岡から新潟まで数十ヶ所で破堤し、各地の庄屋や組頭が集結、大河津
分水着工の猛運動をおこす。
A-3明治2年に着工するが、8年に工事廃止となる。
A-4明治29年の横田切れにより、再び着工、大正元年(1912)に完了、通水となる。
3.治水に尽力した人々
《鷲尾政直の生涯 など》
@鷲尾は黒鳥村庄屋見習役の後、中之口川分水口工事、内野底樋普請工事、第一次分水工事
などに携わり、土木の知識を得ており、実務経験もあった。
A鷲尾は第一次大河津分水工事の中断、挫折の体験を通し、「民力」の重要性を意識していた。
B萩野左門と共に中之口川堤防修築運動に乗り出す。
C黒鳥の鷲尾政直は明治14年「西蒲原郡治水起工議」を著した。
明治14年は柳作の堤防が切れた年であり、この惨状を見て発奮したようでもある。
「西蒲原郡は毎年のように破堤の惨害に沈んでおちぶれているのに、従来人民は目前の安きを
求めて、これを謀ろうとするものがないことは、私の常に嘆かわしく思ってきたところである」
D周辺集落を説得した結果、15年に着工、「起工議」に従い、19年に終了。
E竣工式で、政直は総代として「共同自治の至誠より発揮するところの良果なり」と答辞を読んだ
F祝宴は大庄屋笹川邸で行われ、集まった数百名の村人には祝いダンゴがまかれた。
4.現在のようす
《便利で快適な水との関係》
@信濃川河川敷…公園が整備され、いこいの場として利用されている。
Aウォーターロード…噴水や小川を設けて整備した歩道。
Bとんぼ池や宮池など、いこいの場となっている。
C山田地区はかつては島だったが、埋め立てられて現在の地形になった。
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