2004.7.13水害見舞い

  水と闘う人々

  高橋郁丸・文  &

 新潟市立黒埼中学生・絵

 

 

1.低湿地帯の生活

《低湿地帯とは?》 

日本最大の河川信濃川の「下流低湿地帯」。中之口川や西川、ほかに潟がたくさんありました。

黒埼地域は、西蒲原郡の北側に位置し、東辺を信濃川が、支流中之口川を大野付近で合わせ、北流しています。信濃川・中之口川の東岸の自然堤防上には集落が並び、両河川が形成した沖積平野に広い美田が展開しています。
黒埼地域の南半は、白根市・味方村・潟東村・西川町に接しています。近世までは、東辺の信濃川・中之口川、西辺の徳人潟・浦潟・海老手潟・大潟・田潟、南辺の堤潟・雁潟・熊潟・大沼・平柳潟などに囲まれ、嶋状の土地でした。これらの潟や湖は、周辺の排水溜めとして利用されていましたが、増水などによる湛水の被害ももたらしました。文化15年(1818)に内野の金蔵坂の掘割が着工されて、日本海への排水工事が23ヵ年を要して竣工すると、湛水の被害も減少していきました。そして、大正11年(1922)に完工した大河津分水により、信濃川の水量も減って洪水の被害も少なくなっていきました。














 

《低湿地帯の暮らし》 

低湿地帯は、川の勾配がゆるいため、川の流れもゆるく、雪解け水や豪雨などで氾濫を繰り返しました。そして、川が曲線、蛇行を繰り返し、自然堤防や潟、湖を作りながら平野を作っていました。宮池(水戸際池)は洪水によって作られた池です。また、雨は三潟(大潟、田潟、鎧潟)に集まって、排水しきれずに溜まり水になりました。

低湿地帯は、いらない水の捨て場で、一面に無数の潟があり、アシやガマが繁っていました。 

低湿地帯の溜まり水は「悪水」と呼ばれて、大雨になると田畑まで押し寄せて被害を与えました。

水は農業用水として大切ですが、一瞬にして生命や田畑、家、家財道具を押し流す魔物にもなりました。黒埼地区では集落を守るために囲い土手や水蔵(地盤を高くした蔵)が作られました。

 










《低湿地帯の争い》 

川の上流の人たちは水不足の時には水を独占して、多い時には下流のことを考えず放流しました。

そのため、川の下流の人たちは水不足では田が干上がり、過剰なときには洪水となりました。

そんなことで、水によって地域間の争いが絶えませんでした。洪水が起こると、家はつぶれ、

橋が流されたり、田畑を荒らされたりし、復旧に時間がかかりました。

 

《横田切れ》 

明治29年7月22日の「横田切れ」は、午前4時に、分水町の横田の堤防が切れた大水害で、18,000fの土地が泥海になりました。

横田切れで被害にあった人は避難小屋生活を強いられ、数千人の人が災害の復旧に努めました。けれども、9月に再び堤防が切れ、復旧工事を行いましたが、10月に三回目の決壊。復旧したのは12月になってしまいました。

 











 

《低湿地帯の信仰》 

人びとは「鎧潟の大蛇が、漆山の寺お講に参るので 大雨になる」。と言っていまいた。

 



 

また、潟や沼には蛇や龍、亀などの主がいると信じられていました。水の事故を恐れて、河童祭りなど、水にまつわるお祈りをしていた集落もありました。ツツガムシを祀って、神社や祠を作ったり、ツツガムシ病にならないように祈ったりしました。黒鳥の緒立温泉周辺の伝説、黒鳥兵衛も、低湿地帯が生んだ伝説の一つです。

 

 

水戸場の地蔵さま(明治18)は、柳作の堤防が切れた後に祀られました。この水害時には寺地、立仏、鳥原等の泥水を落とすために寺地の大仙坊を払い切りしました。柳作の堤防が切れたときには、池田左五平家のおじいさんは蔵の屋根ごと、鳥原まで流され、おばあさんは家ごと亀貝まで流されて救助されたといわれています。

 

そのため、「田植えあって稲刈りなし」「腐れ田」「流れ田」

という言葉があったといいます。

 

2.治水・水と 闘ってってきた歴史

 

《治水方法》湿地・川はどのように変わっていったのでしょう。

@ 三潟悪水抜と新川の誕生…西蒲原の悪水を日本海へ…

元文2(1737)、三潟の悪水を日本海に放流する計画がもちあがりました。

三潟の排水を西川から分離し、新川を作る計画が持ち上がりましたが、新潟町が反対しました。その後、説得や訴えの結果、長岡藩主の名で幕府に正式に三潟悪水抜工事願いが提出されました。

工事は大規模で珍しいものだったので、見物人や茶屋まで出現しました。そして、天保8(1838)、新川が出来上がり、悪水が日本海に放流されました。そして、昭和に入り、三潟が次々に干拓されて、田園地帯が広がりました。

 

A 大河津分水の誕生…信濃川の水量を日本海に放流して調整…

享保20(1735)、寺泊の人が始めて幕府に出願しました。幕府が検分しましたが、不許可となりました。

明治元年、水害で長岡から新潟まで数十ヶ所で破堤し、各地の庄屋や組頭が集結、大河津分水着工の猛運動をおこしました。その後、明治2年に着工しましたが、また、8年には工事廃止となってしまいました。

そして、明治29年の横田切れの被害により、再び大河津分水が注目され、再び工事が着工し、大正元年(1912)にようやく工事完了、通水となりました。

 





3.治水に尽力した人々

《鷲尾政直の生涯 など》

鷲尾政直は、黒鳥村庄屋見習役を務めた後、中之口川分水口工事、内野底樋普請工事、第一次分水工事などに携わり、土木の知識を得ました。そして、鷲尾は、第一次大河津分水工事の中断、挫折の体験を通して、「民力」の重要性を意識していました。その後、萩野左門と共に中之口川堤防修築運動に乗り出しました。そして、明治14年には「西蒲原郡治水起工議」を著しました。この年は柳作の堤防が切れた年でした。この惨状を見て発奮したようでもある。その中には、

 「西蒲原郡は毎年のように破堤の惨害に沈んでおちぶれているのに、従来人民は目前の安きを求めて、これを謀ろうとするものがないことは、私の常に嘆かわしく思ってきたところである」と書かれている。

鷲尾は周辺集落を説得した結果、明治15年に着工、「起工議」に従い、19年には工事を終了した。竣工式で、政直は総代として「共同自治の至誠より発揮するところの良果なり」と答辞を読んでいる。祝宴は、大庄屋笹川邸で行われ、集まった数百名の村人には祝いダンゴがまかれたという。

 

4.現在のようす

《便利で快適な水との関係》

信濃川河川敷には、公園が整備されて、いこいの場として利用されています。

ウォーターロードは、噴水や小川を設けて整備した歩道です。そのほか、とんぼ池や宮池など、水辺はいこいの場となっています。

山田地区は、かつては島だったが、埋め立てられて現在の地形になっています。

 

 

 参考文献 

(新潟県の地名 日本歴史地名体系15  平凡社 1986)

 

 講座

  〜地域を興した人々の心〜  ふるさと歴史講座より

  平成14年7月15日  新潟市立黒埼中学校にて

 

水と闘う人々。 (箇条書き版)

1.低湿地帯の生活

《低湿地帯の被害》 農地の様子や洪水について

@日本最大の河川信濃川の「下流低湿地帯」。中之口川、西川、ほかに潟がたくさんあった。

A低湿地帯とは

   川の勾配がゆるいため、川が曲線、蛇行を繰り返し、自然堤防や潟、湖を作りながら平野を作っていった。

   宮池(水戸際池)は洪水によって作られた池だ。

B低湿地帯とは

   川の勾配がゆるいので、流れもゆるく、雪解け水や豪雨などで氾濫を繰り返した。

C低湿地帯には…一面に無数の潟があり、アシやガマが繁っており、水捨て場だった。 

D降った雨は三潟(大潟、田潟、鎧潟)に集まり、排水しきれずに溜まり水になった。

E低湿地帯の溜まり水は「悪水」と呼ばれ、大雨になると田畑まで押し寄せてきた。

F水は農業用水として大切だが、一瞬にして生命や田畑、家、家財道具を押し流す魔物にもなる。

  集落を守るために囲い土手や水蔵(地盤を高くした蔵)が作られたところもある。

G川の上流の人たちは水不足の時には水を独占し、多い時には下流のことを考えず放流した。

H川の下流の人たちは水不足では田が干上がり、過剰なときには洪水となった。

Iそのため、水によって地域間の争いが絶えなかった。

J洪水が起こると家はつぶれ、橋は流され、田畑は荒れ、復旧に時間がかかる。

K有名な明治29年「横田切れ」は722日午前4時、分水町の横田の堤防が切れたもの。

 18,000fが泥海になった。

L横田切れで被害にあった人は避難小屋生活を強いられ、数千人の人が復旧に努めた。

Mしかし9月に再び切れ、復旧工事を行ったが10月に三回目の決壊。12月に復旧する。

N横田切れの時の大野と対岸の鷲巻村の対決。

O人びとは「鎧潟の大蛇が漆山の寺お講に参るので大雨になる」と言っていた。

P潟や沼には蛇や龍、亀などの主がいると信じられていた。

Q水の事故を恐れ、河童祭りをしていた集落もあった。

R水戸場の地蔵さま(明治18)は、柳作の堤防が切れた後に祀られた。

 この水害時には寺地、立仏、鳥原等の泥水を落とすために寺地の大仙坊を払い切りした。

柳作の堤防が切れたときに、池田左五平家のおじいさんは蔵の屋根ごと、鳥原まで流され、お

ばあさんは家ごと亀貝まで流されて救助された。

Sかつては「田植えあって稲刈りなし」「腐れ田」「流れ田」という言葉があった。

 

2.治水・水と闘ってきた歴史

 《治水方法》…湿地・川はどのように変わっていったか。

2-@ 三潟悪水抜と新川の誕生…西蒲原の悪水を日本海へ…

  @-1 元文2(1737)、三潟の悪水(水害を起こす溜まり水)を日本海に放流する計画がもちあがる。

  @-2 三潟の排水を西川から分離し、新川を作る計画が持ち上がるが、新潟町が反対する

  @-3 説得や訴えの結果、長岡藩主の名で幕府に正式に三潟悪水抜工事願いを提出する

  @-4 工事は大規模で珍しいものだったので、見物人や茶屋まで出現した。

  @-5 天保8(1838)、新川が出来上がり、悪水が日本海に放流された

  @-6 昭和に入り、三潟が次々に干拓され、田園地帯が広がった。

2-A 大河津分水の誕生…信濃川の水量を日本海に放流して調整…

  A-1享保20(1735)、寺泊の人が始めて幕府に出願する。幕府、検分するが不許可となる。

  A-2明治元年、水害で長岡から新潟まで数十ヶ所で破堤し、各地の庄屋や組頭が集結、大河津

  分水着工の猛運動をおこす。

  A-3明治2年に着工するが、8年に工事廃止となる。

  A-4明治29年の横田切れにより、再び着工、大正元年(1912)に完了、通水となる。

 

3.治水に尽力した人々

 《鷲尾政直の生涯 など》

@鷲尾は黒鳥村庄屋見習役の後、中之口川分水口工事、内野底樋普請工事、第一次分水工事

などに携わり、土木の知識を得ており、実務経験もあった。

A鷲尾は第一次大河津分水工事の中断、挫折の体験を通し、「民力」の重要性を意識していた。

B萩野左門と共に中之口川堤防修築運動に乗り出す。

C黒鳥の鷲尾政直は明治14年「西蒲原郡治水起工議」を著した。

 明治14年は柳作の堤防が切れた年であり、この惨状を見て発奮したようでもある。

 「西蒲原郡は毎年のように破堤の惨害に沈んでおちぶれているのに、従来人民は目前の安きを

求めて、これを謀ろうとするものがないことは、私の常に嘆かわしく思ってきたところである」

D周辺集落を説得した結果、15年に着工、「起工議」に従い、19年に終了。

E竣工式で、政直は総代として「共同自治の至誠より発揮するところの良果なり」と答辞を読んだ

F祝宴は大庄屋笹川邸で行われ、集まった数百名の村人には祝いダンゴがまかれた。

 

4.現在のようす

《便利で快適な水との関係》

@信濃川河川敷…公園が整備され、いこいの場として利用されている。

Aウォーターロード…噴水や小川を設けて整備した歩道。

Bとんぼ池や宮池など、いこいの場となっている。

C山田地区はかつては島だったが、埋め立てられて現在の地形になった。

 

2004.7.13、新潟県中越地方は未曾有の大水害に襲われました。

水浸しになった航空写真を見ると、絶句してしまいます。

この地方はかつてから、信濃川低湿地帯と呼ばれ、たくさんの小さな川や、

池・潟・湖・沢があり、雨が降ると排水しきれずにあふれ、多くの人々が苦しみました。

そのために大河津分水や、新川が作られ、あふれる悪水を、日本海に流しました。

重機のない時代に、その工事は重労働であり、資金を出すものにとっては大事業でした。

その工事のために、私財をなげうった地主もいました。

彼らは、何の縁もない未来の私たちのために、自らの蓄えを提供したのです。

彼らの血と汗と涙を、私たちはもっと理解しなければならないと思います。

昭和に入ってからも関屋分水が掘られたり、あちこちで排水路が整備されました。

完全に整備され、治水は成功したように思われていました。

しかし、残念ながら災害が起こってしまいました。

かつての人々が、川を恐れ、雨を恐れ、河童や竜を敬っていたように、

私たちも、目に見えない大きな力に、恐れと敬意の念をもたなければならないのかもしれません。

このたびの災害に遭われた方に、心からお見舞い申し上げます。