水の都にいがた  
                                                                            新潟県民俗学会常任理事 高橋郁子  
   

 

 じゅんさい池



 越後平野は日本でも有数の河川である信濃川と阿賀野川が運んだ土砂の堆積によって出来た土地です。そのため新潟は低湿地帯で、その地名にも現れているように、湖沼が多かったと思われます。新潟市の歴史に最初に登場する、大化3(647)年に造られた渟足柵も、ぬかるみを思わせるような名称です。このシリーズでは、新潟市の水辺にまつわる歴史と、魅力的な風景をご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 
 

        西池

 越後平野の低湿地帯の開発は江戸時代から始まりましたが、洪水のたびに水が田んぼなどの低湿地に集まり、冠水が続いて収穫がないこともありました。その後、明治の末に排水を中心とした土地改良技術が取り入れられ、田も湿田から乾田へと改良されました。そのため、湿地や旧河道にも宅地が作られるようになり、無くなった湖沼もありますが、今も残っている潟もあります。
 
 
   中でもじゅんさい池(新潟市松園)は古い砂丘湖といわれています。かつてはじゅんさい池の近くに物見山という山があり、池も三つ並んでいたのですが、山は整備され、中間の池は埋め立てられて、東池と西池の二つの池となっています。今では地名だけになってしまった物見山は、その名前から港や河川の物見(日和見)をしていたと思われます。二つの池は周辺の宅地開発が進んだ現在も、砂丘地であったころから残るアカマツ林に囲まれて、西池には池の名となっているジュンサイ、東池にはスイレンを中心としていろいろな植物が繁茂しており、トンボや蛍の楽園となっています。じゅんさい池は「じゅんさい池公園」として市民の憩いの場となっており、桜の時期にはヒガンシグレがライトアップされ、蛍の時期と共に幻想的な風景が楽しめます。

 

 

 

 

 

                 東池

 
   

 

万代橋

 
   

 「思い出の夜は 霧が深かった 今日も霧が降る 万代橋よ・・・」
新潟の夜の繁華街で、長く歌い継がれている「新潟ブルース」(山岸一二三/作詞、山岸 英樹/作曲、美川 憲一/歌)の一節です。

 現在の万代橋は、三代目です。初代の万代橋が完成した明治十九年当時、信濃川に分断された新潟町と沼垂町の交通手段は、渡し船でした。そのころの信濃川の川幅は七百メートルもあり、天候によって欠航したり、転覆事故を起こしたりするため信濃川に橋を架ける必要性が考えられました。

 初代万代橋の出資者は第四銀行頭取の八木朋直という人でした。
 橋を架けるという話を知った人々は八木や、出願をした内山信太郎を「気が狂っている」と笑っていたそうです。
 橋の設計を請け負ったのは日本初の工学博士である古市公威、工事の棟梁は長岡の猪股五郎吉で、明治十九年十一月四日に竣工式が行われました。
 一代目の橋は、明治四十一年火事で類焼、二代目が復元されました。
 昭和四年には鉄筋コンクリート、六連アーチの三代目万代橋がかかりました。地震に強いといわれるアーチ形式を証明するように、昭和三十九年、新潟を襲ったマグニチュード7.5の地震にもびくともしませんでした。

 

 
   さて、この万代橋ですが、古町通りの繁華街から新潟駅への通り道になります。
 新潟ブルースの主人公も、かつて古町から新潟駅まで寄り添って歩いた新潟の女性の面影を偲びながら、やるせない思いで歩いていたようです。12月は、忘年会のグループもたくさん歩いている万代橋、今年は忘世紀会(?)帰リの人もたくさん通ることでしょう。
 万代橋周辺のイルミネーションに輝く美しい水面を、すべての人たちが楽しい思い出にできるといいですね。
 

 

       市長公舎所蔵 橋掛翁 八木朋直画

 
   

 

寒の水と寒仕込み

 

 
   新潟には、全国にただ一つの清酒製造専門の研究機関、「新潟県醸造試験場」があります。新潟の酒は、新潟の水と雪国という風土が生み出した宝物です。 酒造りはたくさんの水を必要とします。ボイラーや釜の水、洗浄用水などの他に、「洗米水」、次に米に適度な水を吸収させる「浸漬水」、酒母や本仕込のための「仕込水」(原料となるもの)、割水用水(原料となるもの)などです。 新潟の水は山からの雪解け水や湧水などの軟水で、軟水は酒を仕込むと酵母菌の働きを助けながらゆっくりと発酵し、柔らかな酒になります。

 また、お酒を作るときには品温を15℃以下におさえなければ良いものができません。 気温が低く、雪によって空気中の雑菌も押さえられる冬の新潟は、酒を発酵させる微生物を雑菌から守る、酒造りの好適地といえます。


 
 
 
 暦が小寒を迎えることを寒の入りといいます。寒中は水質が最も良いといわれ、これを寒の水と称して昔は健康のために飲んだり、豆腐を作って食べたり、物を研いだりするために使っていました。 寒の水の中でも寒に入って九日目にくんだ寒九の水が最高と考えられていました。酒や味噌などの発酵食品も寒の頃に「寒仕込み」を行いました。 寒中は雑菌が少ないため麹が扱いやすく、菌がゆっくり育ってきめの細かな味になります。 味噌作りでは、寒に仕込んだ味噌は夏の土用で発酵が終わるので、土用が過ぎると天地をひっくり返してさらに寝かせ、十〜十二月頃に出来上がりました。 現在でも酒蔵では寒仕込みを行っており、冬期限定の酒がたくさん出荷されています。
 

〆縄の張られた酒蔵

 
 
 今代司酒造では蔵の見学をすることができます。

 今代司酒造  рO25−244−3010

 

 

仕込まれた酒が眠るタンク

 
 

 

鳥屋野潟

 

   

 鳥屋野潟は新潟市のほぼ中央に位置する市内で最も大きい潟です。ハスやアシ、ヒシなどの植物が繁茂し、東西に2.5kmの長さがあります。かつて鳥屋野潟には亀田郷の排水河川である栗の木川が通り、回りは蓮潟、小潟、女池、三瓶池などの潟が点在するという湿地帯でしたが、県営親松排水機場によって乾田となり、近年は都市化が進んでいます。

 鳥屋野という地は、古い伝承の残る所です。西方寺(新潟市鳥屋野1−30)には国指定天然記念物に指定されている「逆さ竹」があります。 これは親鸞上人がこの地に来て、竹の杖を地に刺して教えを説いたところ、杖から逆さのまま芽が出て成長して竹林になったものだといいます。また、承久の乱に破れた順徳上皇が、佐渡へ配流の途中に鳥屋野に滞在し、地元の人たちに都の踊りを教えました。この歌と踊りは「鳥屋野六階節」と呼ばれ、今も伝えられています。順徳上皇が佐渡に渡った日に、鳥屋野の人たちが灯籠を灯して見送ったといい、今でも鳥屋野神社ではその日に灯籠を飾っています。
 

 

 

 

 

 

 

 

鳥屋野神社とうろう祭

 
 

 鳥屋野潟湖岸の桜並木やアシ原は私たちの目をなごませてくれるだけでなく、虫や鳥にとっても住みやすい所のようで、季節ごとにいろいろな虫や蛙の鳴き声、鳥のさえずりが聞こえてきます。冬には渡り鳥がたくさん飛来します。中でも白鳥の白さは、冬の雪雲の空に、太陽の光を切り取って散りばめたような美しさです。親鸞上人や順徳上皇も冬空を飛ぶ白鳥を見て、都への思いを募らせていたかもしれません。
 現在、鳥屋野潟の周辺は県立鳥屋野潟公園として整備され、潟の南岸には2002年のワールドカップの会場となる新潟県総合スタジアムが作られています。スタジアムは冬の使者、白鳥をイメージして作られ、愛称は「ビックスワン」と決まりました。

 
 

 

漂着した神々

 

 

蛇松明神社

川は私たちにいろいろな恵みを与えてくれますが、氾濫を起こして暴れる川は大蛇にもたとえられ、恐れられます。ところが、神々が流れてくることもあります。

 新潟総鎮守白山神社の本殿裏にひっそりと祀られている蛇松明神社の御神体は蛇の姿に似た松の老木です。中蒲原郡村松町に残る伝説によると村松町の白山(1012m)に住んでいた大蛇が洪水を起こしたり作物を荒らしたりするため、白山の麓に慈光寺を開いた傑堂能勝という禅師が説法をしたところ、大蛇はのたうちながら能代川という川を作って海へ向かいました。禅師は平野を荒らす大蛇を鎮めるためにあちこちに地蔵を立てたので、小さな白蛇となって白山神社にたどりついたのです。
 
  白山神社発行の「蛇松明神の御由緒」によると、信濃川が大洪水をおこしたときに神主が水中の一条の光を不思議に思って船を出し、おぼれていた白蛇を神社の松の枝に乗せて助けたところ、その白蛇が美しい姫の姿となって「この宮社の守り神となり末永くこの地の繁栄と難病苦難の人々を守るために祈ります」と言い残して姿を消したのだそうです。その時から松の幹の皮が蛇のウロコのようになり、蛇松明神となったといいます。霊峰白山からやってきた大蛇は人々の祈りによって神様となりました。これは人々の治水の努力を暗示したような伝説とも思えます。

御神木の老松

 
 

本町市場の白龍権現

 本町市場の入口にある白龍権現様も信濃川を流れてきた神様です。昭和二十八年、本町通の商店街の繁栄策として、神社建立を考えていたところ、当時分水町に漂着し話題になっていた御神体を懇請して還座したものです。本当の落とし主は三条市の女性祈祷者で、松岡洋右(元外相・当事長野県住)から拝領したものを、小千谷市の橋から誤って信濃川に落としたものでした。川が結んだ不思議なご縁で龍神像は新潟にたどり着いたのです。  
 

 

佐潟とラムサール条約

 

   新潟市役所から弥彦街道を通って車で三十分ほど行くと、弥彦山・角田山を背景にした、美しい潟が見えてきます。佐潟は自然に近い状態が保たれている貴重な湖沼で、潟の周辺には畑や林があります。餌場や巣となる木が豊富なことから、佐潟には鳥類がたくさん見られます。佐潟には外部から流入する河川はなく、水源は周辺砂丘地からの湧水や雨水で、水質は淡水、窒素やリンなどの栄養塩類の多い富栄養湖に分類されています。

 そのため植生も豊富で、全国的に絶滅が心配されているオニバス、ミズアオイなどがあり、湿地としての自然の豊かさが示されています。佐潟で植物が一番賑やかな季節は夏で、ハス、コウホネ、ヒシなどの花が咲きそろいます。中でもハスの花は盆花として収穫されています。

 

 

 

 

                                   落日の佐潟

 
   春、ヨシ原が青々とした葉を茂らせると、オオヨシキリが「ギョーギョーシ、ギョーギョーシ」と鳴きながら佐潟全域で繁殖を始めます。夏にはサキ類、カワセミなどがやって来ます。秋からはオオハクチョウ、ヒシクイなどの大型の水鳥がたくさん渡ってきます。

 佐潟は1996年にラムサール条約登録湿地になりました。ラムサール条約は「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に対する条約」で、湿地を保護・保全し、懸命な利用を目指します。佐潟は古くから周辺の灌漑用水源として利用されており、蓮根の採取や漁業などが行われ、地域の生活と密接に結びついていました。今日行われてる漁業、ハスの花取り、蓮根取りは人々と関わり合う湿原として、特別に許可されていることです。
 
 

 現在、佐潟には「佐潟水鳥・湿地センター」が開設され、観察スペースや学習コーナーで佐潟の姿を見たり、学んだりできるようになっています。美しい水辺の風景と生態を守るため、ぜひ訪れていただきたい場所です。
 

 

新潟市電子郵便局掲載