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平成10年度郷土史講座
信州御柱祭と越後
新潟県民俗学会常任理事
高橋 郁子 |
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1 はじめに
長野県の御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭である。諏訪大社の祭神は建御名方命で、越後出身の神である。御柱祭りにかかわる行事から、諏訪と越後の関係を考えてみたい。御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれている。社殿の造営行事は、今では宝殿だけを建て替えるという大社の内部的な祭事となっている。それに対し御柱の曳建行事は、諏訪地方六市町村(岡谷市・下諏訪町・諏訪市・茅野市・富士見町・原村)の住民が集まり、勇壮な山出しや里曳きなどがあることからよく知られている。諏訪大社は諏訪湖をはさんで上社と下社に分かれ、上社は前宮と本宮、下社は春宮と秋宮に分かれている。祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。この四本の柱とは何を意味するのであろうか。
柱祭は海外でも類似したものが行われている。諏訪市立博物館によると、スウェーデンの夏至祭、イギリスのメイポール、ドイツのオクトーバフェスト、ネパールのインドラ・ジャートラ、インドの扉曳き祭、ミャンマーの柱立て祭、タイの新年の木、チベットの聖なる木、メキシコのフライングインディアンなどである。これら柱祭の起源には四本の柱が宮殿を表す、柱が神の依代である、竪穴住居の柱を七年ごとに取り替えた名残り、とういうような諸説がある。また、御柱神事を見ていると、縄文時代の堀立柱建物などの造営はこのようなものだっただろうかとも思われる。
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2 御柱祭の概要
@ 薙鎌神事(国境見の神事)
御柱祭が行われる前年、北安曇郡小谷村字中土大宮諏訪神社と小谷村戸土境宮諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌を打ちつける行事。薙鎌とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、鳥の形をしている。この形が何を意味するのか、さらにこの時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのかはよくわかっていない。
A 御柱仮見立て
上社は祭の二年前、下社は祭の三年前に仮見立てを行う。上社は諏訪大社所有林のある御小屋山(八ヶ岳阿弥陀岳中腹)で、下社は下諏訪町東俣国有林から御柱を選ぶ。
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B 御柱本見立て
上社は祭の前年、下社は祭の二年前に本見立てを行う。正式に神木を決め、上社は薙鎌を打ち、下社はしめ縄をはり、御柱名を墨書きした標示板を取りつける。
C 御柱抽籤式・曳行分担決定奉告祭
上社は御柱抽籤式といい、上社本宮、前宮の八本の柱をくじびきで決める。祭の年の二月に抽還式を行う。下社は各地区の担当が決まっているため、関係者がこれを確認して親善に報告するもので、曳行分担決定奉告祭という。祭の年の二月に行う。
D 御柱伐採
上社は祭の年の三月、下社は祭の前年の五月に行う。平成十年度・御小屋山では伊勢湾台風などによる倒木の影響で、一、二の神木にするべきモミの木の確保が困難となり、上社の御柱も史上初めて国有林から伐採された。
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E 綱打ち…祭の年の二〜三月
完成した曳き綱は各地区内の公共施設や飲食店、商店などに飾られる。綱は各地区それぞれの作り方がある。原村では稲藁を使わず昔ながらの藤の根を編んで曳き綱を作っている。
F 山出し祭
上社は四月三日〜五日、下社は四月十〜十二日に行われる。上社は茅野市玉川原山、原村原山、八ヶ岳中央農業実践大学下にある三ヶ所の綱置き場から茅野市宮川安国寺にある御柱屋敷まで約十一キロの道のりを曳行する。上社の御柱にはメドデコという二本の角のようなものが取りつけられている。上社には木落とし、川起しという難所がある。下社は棚木場から四、七キロの道のりで国道142号線の注連掛まで運ぷ。下社の木落としは山出し祭の最大の見せ場。
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G 里曵き祭
上社は五月三〜五日、下社は五月九〜十一日。上社下社ともに御柱曳行の神にぎわいとして、氏子による長持ちや花笠踊り、騎馬行列、みこし、踊り流しなど様々な演出がある。
御柱に取りつける綱は元綱といい、上社は御柱に向かって右側を男綱、左側を女綱、下社は逆で左を男綱、右を女綱と呼んでいる。一本の長さは二百〜三百メートルで、曳子はこの曳綱に小綱を結び付けて曳行する。
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H 建御柱
上社・下社とも里曳き祭最終日。曳行された御柱の先端を三角すい状に削り、社殿の四隅に建てる。建てられた御柱は御柱固めといって大きな木槌で根元を固め、次の御柱祭までの無事を祈る。
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3 諏訪と越後
薙鎌の神事は信越国境の小谷で行われる。この神事のいわれや意義は不明であるが、古事記では諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。その時に建御名方命は「諏訪の地からは一歩も出ないので許してください」と懇願したといわれている。この薙鎌は「ここからは出ない」というしるしなのだろうか。
諏訪大社の祭神建御名方命は、越後の奴奈川姫と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。奴奈川姫と八干矛神の物語は神代のロマンなどといわれているが、古事記における二人の問答を見る限りでは二人の出会いはかなり非情なものである。
「(前略)吾が立たせれぱ青山に鵺は鳴きぬさ野つ鳥雉子は響む庭つ鳥鶏は鳴く うれたくも鳴くなる鳥か この鳥もうち止めこせね(後略)」(私が立てぱ 青山に鵺が鳴く 野では雉が騒ぐ 庭では鶏が鳴く いましましくも鳴く鳥だ この鳥も打ち殺して黙らせてやろう)…八千矛神の歌
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(前略)今こそは吾鳥にあらめ 後は汝鳥にあらむを 命はな死せたまひそ(後略)」(今は私の鳥…私の国の人…ですが今からあなたの鳥…あなたの国の人…になりますのに 命だけは助けてください)…奴奈川姫の返歌
この歌のやりとりからもわかるとおり、八千矛神の歌は侵略と脅しであり、奴奈川姫はひたすら命乞いをしているのである。その後、奴奈川姫は建御名方命を産むのであるが、『奴奈川媛命並奴奈川神社』(大正十年)によると、姫は大国主の手から逃れ、ほとんど焼身自殺のような形で姿を消している。奴奈川姫はヒスイの主権者といわれているが、黒姫の神を祀る巫女だったともいわれている。牧村には実際沼河比古命という神が祠られている神社があることから、巫女である奴奈川姫の御託宣を人々に知らせる者が沼河比古命といい、彼がヒスイの国の主権者、王であったのかもしれない。
一方建御名方命は出雲へ渡ったものの、先ほどの高天原の神(建雷命…春日大社・鹿島神宮)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている。そのため、神々が出雲大社に集まる神無月にも建御名方命は出雲大社へは行くことができない。諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪大社でも承知している話である。また、出雲を離れてからは能登半島の珠洲市あたりに拠点があったともいわれており、出雲、能登では彼はミホススミと呼ばれている。そのため、建御名方命が諏訪に入ったときには諏訪では「出雲の神が攻めてきた」と感じたようで、彼を「出雲建」と呼ぴ、地元の神と戦っている。しかし、その戦いは無血の戦いだったらしく、負けた地元の洩矢神はそのまま建御名方命の補佐役となり、その家柄は守矢家として続いている。
建御名方命はその後地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ、建御名方命は上社に、八坂刀女姫は下社に祀られている。真冬に諏訪湖の氷が盛り上がって割れる御神渡りは建御名方命が八坂刀女姫のもとに通ってできるものだといわれている。二人の子の一人、興波岐命は別名新開明神といい、佐久平を開いたといわれている。神話の世界では建御名方命は異色の神である。記紀の世界では高天原の神々に背いたものはほとんど命はないのだが、建御名方命は命を助けられたばかりか、孫娘は崇神天皇の御子である建五百武命の妻となっている。神話では大国主命(八千矛神命)と事代主命(御名方命の兄)は出雲で国を譲ったことになっているが、暗に抹殺された。しかし、事代主命の娘たちは第一代神武天皇と第二代綏晴天皇の皇后に、孫娘は第三代安寧天皇の皇后になっている。さらに綏晴天皇の別名は神渟名川耳天皇の皇后の名は渟名底仲媛命という。奴奈川姫のヌナの字を踏襲している様で興昧深い。 |
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建御名方命の母神であるその奴奈川姫は神霊となって息子のもとに依り、母神として茅野市の御座石神社や諏訪大社の上社・下社に祀られている。 |
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御座石神社では「どぶろく祭り」が行われている。この祭は狩りから帰ってきた建御名方命をどぶろくでもてなしたことから続いているという祭である。また、御柱祭では木遣り歌が重要な働きをしているが、信越国境の新井市では今でも結婚式は歌で送り出し、歌で迎えている。
また、諏訪大社上社御頭祭では鹿の首や兎の串刺しなどが奉納されていたが、(今は兎はない)昔は越後から塩漬けにして運ばれていたものだという。搬送された土地には「鹿」のつく地名が残ったといわれているが、新井市の大鹿や牧村の鹿頭神社などは関係が深いように推測される。
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4 おわリに
神話や伝説、神社や祭礼のいわれなどはきちんとした史料とは認識されていないため、これらの内容は絵空事であるとして処理されているが、果たしてそうだろうか。歴史に名も残らない一般大衆が脈々と伝え、熱狂する祭礼や、伝承はたあいのないもので何の意味もないのだろうか。奴奈川姫や建御名方命は存在しないのだろうか。
信じる信じないは自由だが、私は諏訪大社の祭神は越後出身と信じ、
その性格について今後も調べてみたい。
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参考文献
「諏訪大社の御柱と年中行事」宮坂光昭(郷土出版/1992)
「カラーグラフおんばしら」(信州・市民新閲グループ/1998)
「鬼は零落した神の姿か」拙著(中外日報/1998)
「常設展示ガイドブック」(諏訪市博物館/1995)
平成10年度郷土史記録集 新潟の歴史を語る《第5号》1999年新潟市郷土資料館発行に掲載されたものです。
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