新潟市平成12年度郷土史講座より                                             

鮭の大助と王瀬長者の伝説

                新潟県民俗学会常任理事  高橋郁子
 
         
  1 はじめに

 新潟市に「王瀬長者」という伝説がある。この話には長者伝説と地名の由来伝説の,二つの要素がある。伝説を裏づけるように沼垂には王瀬長者の墓が存在する。「王瀬長者」の伝説をもとに,伝説の意味,さらに民俗学の可能性についても考えてみたい。

2 王瀬長者

(1) 王瀬長者伝説


伝説1 大助小助が信濃川を上ってくるとき舟を出すと,舟がひっくり返されるといった。大助小助が上るときは特別に魚が多くあがるので,無理をして舟を出すと転覆した。魚が多く捕れ過ぎて沈没する舟もあった。(曽川・楚川)

伝説2 霜月の中頃,サケの王様の大助小助が阿賀野川を上るという。ここらに住んでいた長者が,金の網で捕まえようとしたが捕まえることができなかった。その後この長者は没落してしまった。(松浜)

伝説3 サケの親分が恵比須講の前後に,七万匹の家来を連れて川を上る。その親分は女の親分であるともいわれた。(松浜)

伝説4 大助小助は,ミノ・笠を身に付け人間に化け,阿賀野川から信濃川へ移った。その時,途中の河渡でカラタチのクネ(垣)のとげに目を刺して片目がつぷれた。このため、信濃川で捕れたサケには片目がないか,あっても他の魚のような固い目ではないという。(西名目所)

伝説5 大助小助が川を上る前の晩,片目の大助小助が家来を何匹か連れて上るから網の目を三つ切っておいてくれと頼んでいった。しかし,長者は欲深で,網の目を切らずに入れた。すると,片目の大きなサケの雄が入っていたという。(江口)

伝説6 昔,王瀬に長者がいた。この長者がサケの王様の大助小助を金網で捕まえようとしたが,捕まえることができなかった。以来家運がだんだんに傾いて自分も病気になった。長者の財宝の中に特別大切にしていた黄金の鶏があった。病気も次第に重くなり,死期が近いと悟った長者は,ある目ひそかにこの黄金の鶏を持ち出して松林の中に埋めた。そして問もなく亡くなった。(海老ヶ瀬).


伝説7 ずっと昔王瀬に大層な長者が住んでいた。長者の屋敷は大変広く、その木戸のあった所が、今の上木戸、中木戸、下木戸、山木戸であり、長者が牡丹を植えたところが牡丹山、藤見をしたところが藤見町だという。

 当時,信濃川に大助小助というサケの主がいた。毎年霜月十五日は大助小助が川上のお宮へお参りに行く日なので,漁は休むことになっていた。王瀬の長者は,大助小助を捕まえようと思い,その日に網を入れることにした。その前の晩,大助小助が長者の夢枕に立ち,捕まえるのはやめてくれと頼んだ。長者は構わずに網を打ったが一匹も魚がかからなかった。このことがあってからまもなく,長者の家は没落したという。大助小助は一匹の名前とも,大助が夫,小助が妻の夫婦のサケだともいっている。また片目であったともいう。

 長者は二人ではなく王五,王六の兄弟だった。第十二代景行天皇の時,全国を平定するため各地に人が派遣された。沼垂には,天皇の第五の皇子と第六の皇子が来て,渟足の柵を造ってここを支配した。これが王五,王六であるという。長者は,ムカイ山に住んでいたともいう。ムカイ山は山の下地区にある沼垂地籍の山で,俗に沼垂山ともいっていた。それで沼垂山の長者とかムカイ山の長者と呼ぱれていた。(沼垂)(伝説1〜7は,新潟市史資料編10,11による)

伝説8 長者の育てていた小熊が大鷲にさらわれ,数人の従僕にあとを追わせた。松ヶ崎を越えたところで日が暮れ,船形をした家に宿を乞うた。家には片目の老人がおり,泊めてくれた。彼は「実は我らは大介小介という鮭の王族であるが,来たる水神の日(霜月十五日)には信州戸隠へ詣でるため,信濃川を遡るから,その日は網を休んでほしい,もし休めぬなら網の目の両側を三つ切っておいてくれ」と頼んだ。小熊をあきらめて家へ戻った従僕たちは主人に報告したが、長者は百尋に余る金網を作り,網の目も切らなかった。当目は鮭数千匹の大漁であったが大介小介は捕らえられなかった。このとき,金襴の羽織を着し銀刀を帯ぴた片目の侍が長者の前に現れ「御骨折りご苦労」と一礼して去り,以来長者の家は滅亡した。(文献1)


 
 
   
  (2) 伝説の地

 上木戸、中木戸、下木戸、山木戸、牡丹山、藤見町,物見山など。藤の山に邸宅を構え,じゅんさい池のあたりまでを王瀬と称したり,竹尾,紫竹も邸宅の名残りという伝説もある。
 
 
  (3) 王瀬長者の墓 

 現在,沼垂の法光院にある。「新潟古老雑話」によるとこの墓は沼垂金鉢山の麓の寺屋敷にあったものを大正時代に法光院の快温氏が供養のために持ち帰ったものという。

3 鮭の大助

 (1) 他県の大助伝説


その1 霜月十五日の夜は,川魚の王様である鮭の大助が,一族を率いて海から川に登る日であるという。この日は,川の仕事は一切休みにし,川端に出てはならないとされている。鮭の大助は川を登って行くとき,「鮭の大助いま登る。鮭の大助いま登る。」と、叫びながら登って行くという。この声を聞いた人は三日と生きられないというので,川端の村々では,この日は太鼓を叩き,鉦をならし,大声で唄を歌って川祝いをし,大助の声を聞かないようにしている。…古口あたりでは,この日は簗の一方は開けておき、鮭が登れるようにしていた。(文献2)

その2 陸中海岸の赤浜に住んでいた娘が鮭の子を産んだ。それを快く思わない弟が,子供を殺してしまった。悲しんだ娘は大槌川の深みに身を投じてその日が旧暦の十一月五日で,鮭の王が一族を引き連れて、毎年川にのぼって来るといわれ、その鮭の王の「大スケ小スケ今のぼる」という声を聞いたものは三日以内に死ぬという。それでこの地方では,この日は賑やかに餅をついて,その声が聞こえぬようにするのだと伝えられている。(抄・文献3)

 新潟以外にも鮭の大助の伝説は多数存在し,複数の論考がまとめられている。神野善治は,「鮭のオオスケ、つまり鮭の主とか王とか言われる魚が毎年きまった時期に眷属を連れて川を上るという話で,山形県を中心に東北日本に伝えられているものである。」とし,伝承の骨子は「a.主人公は漁場の管理者的性格を持つ。b.主人公が他界(鮭の住む世界)を訪れる。c.鮭のオオスケが登場し、主人公に魚取り商売をやめる(簗を開ける)ことを約束させる。d.これ以後、鮭の大助の上る日には簗の留めを開けたり,漁を休む。e.もし大助が川を上る声を聞いたり,この日,漁をしたりすると,三日と生きていられぬ,ひどい目にあうといって厳しい物忌みが要求される。」というものであるという。(文献4)

 (2)鮭にまつわる民俗

 新潟県では河川における鮭漁が暮らしの中で重要な位置を占めていた。「あまの手振」によると,秋の彼岸から冬至にかけてが最盛期であったという。山北町の大川では、コド漁という小規模な鮭漁行なわれている。新潟県北部から山形県の最上地方一帯では「鮭の干本供養塔」といい、鮭が千匹獲れるとかつては供養塔を建てていた。

また,鮭は神への供物としても登場している。「我国では古く贄とは魚類を意味していただけに是等を犠牲とする土俗は頗る多い。(中略)米沢市に近い下長井村の一宮神社の祭日は旧七月十九目であるが,此の日に村民は贄狩りをするが必ず片目の鮭一尾を獲る,これを生贄として神前に供える。(中略)馬町村の椙尾神社の例祭の時には、御旅所金沢の両村から鮭を献じ神楽を奏することになっている。」(文献5) 食生活との結びつきを知るため,農山漁村文協会の「目本の食生活全集」で食材としての鮭について調ぺてみたところ,記述された鮭料理件数の上位は次のとおりだった。

 1.アイヌ 34件 塩引き・たたき・氷頭・目玉・白子の焼き干し・筋子とキノコのご飯ほか

 2.北海道 34件 石狩なべ・氷なます・骨かまぼこ・イクラ・粕汁・親子飯ほか 

 3.新潟県 30件 酒びたし・塩引き・雑煮・氷頭なます・年取り魚・押しずしほか

 4.岩手県 21件 えらの酢の物・粕炊き・氷頭なます・塩辛・塩炊き・白っ子の味噌汁ほか

 5.山形県 18件 酒塩煮・塩引き・氷頭なます・よう汁・煮魚・ざんぱん汁・すしほか

 このように東日本では鮭は生活に密着したものであり,伝説ができる素地はあった。

 (3) アイヌと鮭

 菅豊(文献6)によると,「鮭は神が人間世界に遣わす使者であり,人間と神との交流をとりもつものとして描かれている。」「日常的にも鮭の頭を腐れ木でたたくことはもちろん,その他有り合わせの木片や石ころでたたくことも鮭の遡上の妨げになるということで禁止され」「特別な打頭棒が使用される」という。菅はこのような特別な捧が使われるのは鮭を殴り殺す行為は「鮭の霊魂と肉体を分離し、食料として有益な肉体を人問の世界へそして残された霊魂をそれを支配する神の世界へと移行させるための呪的忌みを持つ儀礼」ととらえている。アイヌのユーカラに,「…天国の鹿の神や魚の神が,今日まで鹿を出さず魚を出さなかった理由は、人間たちが鹿を捕る時に木で鹿の頭をたたき、皮を剥ぐと鹿の頭をそのまま山の木原に捨ておき,魚をとると腐れ木で鮭の頭をたたいて殺すので,鹿どもは裸で泣きながら鹿の神の許に帰り,魚どもは腐れ木をくわえて魚の神の許へ帰る鹿の神,魚の神は怒って相談をし,鹿を出さず魚を出さなかったのであった。・・人間たちも悪かったという事に気がつき,それからは幣の様に魚をとる道具を美しく作りそれで魚をとると,鹿の頭もきれいに飾って祭る,それで魚たちは、喜んで美しい御幣をくわえて魚の神のもとに行き,鹿たちは喜んで月代をして鹿の神のもとに立ち帰る。それを鹿の神や魚の神はよろこんで沢山,魚を出し,沢山,鹿を出した。…」というものがあり,いかに鮭は大切に取り扱わねぱならないかがわかる。

4 長者伝説と鮭

 (1) 柵にまつわる話


 「日本書紀」によると,642年に「越の辺(ほとり)の蝦夷数千」が服属来降し,蝦夷に対して饗応したという。大化3(647)年には渟足柵が造られ,翌年には砦舟柵が造られた。柵は蝦夷に対する軍事基地、開拓基地であり,蝦夷を支配下に組み込むために造営されたと考えられる。その後,最上柵や出羽柵,胆沢城などが造られた。中でも胆沢城での田村磨呂と阿弖利為・母礼の戦いは有名である。

 (2)王瀬長者はなぜ鮭を裏切ったのか

 東北の各地に鮭の大助伝説が存在しているが,霜月15日に鮭を取ってはいけない,「今登る」の声を聞いてはいけない,という話で終わっている。その日にちから,水神的性格がわかる。では,新潟の王瀬長者が鮭を裏切って没落したというのは何を暗示しているのだろうか。

 アイヌの人々は鮭の皮を加工し,いろいろなものを作る。江戸時代、鮭の皮の靴をはいていたアイヌ人に,和人が「常に神とあがめている魚を履物にするとは」と言うと,「お前たちも米は大切だといいながら草鞋にしてはいているではないか」と返したという。アイヌ民族と蝦夷を簡単には結ぴつけられないが,鮭を裏切るということは鮭をトーテムとしていた人々を裏切ったということではないだろうか。柵では,蝦夷と戦うだけではなく,柔軟に蝦夷と手を結んだこともあったのではないだろうか。約束を取り交わしながら,それを破り,何かしこりが残るような事があったのかもしれない。そんな事が王瀬長者の伝説を産んだのではないか。

5 まとめ


 伝説とは,「昔あったてんがな」で始まる昔話と違い,人物や地名等,実在のものにまつわる話をいう。伝説には匿名性がなく,「この事実は残したい」という人々の意思が反映されている。昔話が両親や祖父母などの肉親により,愛情を持って子供たちに語られるのに対し,伝説はその人物や土地にふれた不特定の人々に伝えられている。現在はインターネットなど情報を得る手段がたくさんあるので、昔話や伝説を調ぺようと思えぱたやすいことだ。しかし口承で話が伝えられていた時には多くの情報を得ることは大仕事であり,また,必要のないことであった。昔話が「あるところに…」とか,「おじいさん,おぱあさん」と匿名であることは,大人が子供に話して聞かせるときに,その物語を身近な事実に置き換えて考えやすいなど・子供の想像力を培うためでもあった。それに対し伝説は庶民の素朴な感情を伝えている。昔話と違い,聞き手を無視するようにも思われる淡々とした事実の報告のような語りは,そっけないが聞き手の心をつき動かす説得力がある。昔話のように聞き手に合わせ,'聞き手を喜ぱせるために語るのではなく,伝説の語り手は事実のみを伝えるために語るのである。今ではマユツバではないかと疑われるような伝説も,語り始められた時にはきっとその当時の人には真実であったはずである。「たかが伝説」と侮らず,なぜこの伝説が残されたのか考えることが必要である。自分の心をその当時の人の心と同化させ,思いやることにより,手がかりも失われてしまっている昔の人々の心や生活が蘇るかもしれない。

 
 
         
   (参考文献)

文献1「新潟古老雑話」鏡淵九六朗/昭和8

文献2「山形県最上地方の伝説」大友義助/東北出版企画/1996.

文献3「岩手の妖怪物語」藤沢美雄/トリョーコム/1988

文献4「鮭と精霊のエビス信仰」神野義治/日本民俗文化資料集成19/三一書房/1996

文献5「動物を犠牲にする土俗」駒込林二/生贄と人柱の民俗学/批評社/1998

文献6「鮭をめぐる民俗的世界」菅豊/民俗文化資料集成19/三一書房/1996

      (平成12年度郷土史講座記録集 新潟の歴史を語る第7号・新潟市立郷土資料館発行 掲載)