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平成11年度郷土史講座
湊町新潟の民俗
新潟県民俗学会常任理事
高橋郁子
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1 はじめに
日本が開国して,横浜・函館・長崎・神戸・新潟の五港が開かれてから平成10年で130年となりました。日本を代表する港として認められていた新潟の,湊町だから現れた独特な民俗事象を再確認してみましょう。
2 湊町新潟の民俗を訪ねる
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(1)日和山と方角石
新潟湊は開国以前から信濃川や阿賀野川から入ってくる船,海から来る船でにぎわいました。川から来る舟は近在の農家の人が米穀類を運んでくる舟で,海から来る船は回米船と回船でした。海上の気象は厳しく,変わりやすいものです。船が出港して天気が急変したりすれぱ船は難破してしまい,大切な品物が流れてしまったり人命にもかかわるような事態になってしまいます。今のような科学的な天気予報がない時代は,熱練した船頭が天気を見ていました。それは日和見といい,雲の濃淡や形,風向き,風速,虹の溝空時間,月暈,日暈,タ焼け,朝焼けなどから判断していました。けれども,熟練した船頭でも自分の土地では日和が見られるものの,未知の土地では経験が役に立ちません。そこで頼りになるのがその土地の日和を見るのを商売にしている「日和見」です。
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日和を見るためには湊が一望できて海や遠方の山などが見渡せるところが必要です。そんな条件を満たして,日和を見るために利用された湊に近い小山を「日和山」といい,全国各地にその存在が確認されています。阿賀野川と信濃川の河口が離れた後,信濃川の河口が動いて日和山(東堀通13番町)は河口から遠くなり、新日和山が登場しました。旧日和山に水戸教の伊藤仁太郎が家で奉祀していた住吉神社を還座し,今に至っています。水戸教は,出入りする廻船に瀬のある場所や水深を教え,水戸教船で安全に入港を誘導する仕事をしていました。現在,住吉神社は社務所もなく寂れていますが,境内にある「水戸教の方位盤」といわれた方角石が往事を忍ばせます。現在残っている方角石は明治24年の住吉神社の大祭のときに奉納されたもので,昔からの方角石は新日和山と共に日本海に水没したと推測されています。
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(2)船の絵馬
船乗りの信仰を集めている神様に,住吉神社と金比羅神社があります。住吉の神は底筒男命・中筒男命・表筒男命という三柱の神が主祭神といわれ,海上交通に関する信仰を集めています。この三柱の神は,夜の航海で方角の目安となっていたオリオンの三つ星ではないかといわれています。一方,香川県琴平町の金比羅宮が信仰の中心である金比羅神社は,海難救済や豊漁の神として信仰されています。新潟市内にも金比羅神社がありますが,そのうち,西厩島の金刀比羅神社には「奉納和船模型」が,寄合町の金比羅神社には「難破彫刻絵馬」が奉納されています。金刀比羅神社に奉納されている数多くの「和船模型」は,かって日本海沿岸で活躍していた北前船の模型で,当時の船問屋や船主が奉納したものです。各船には奉納年月日,船名,奉納者名が記されています。自分の持ち船の姿を船大工に頼んで制作したようで,当時の船の構造や造船技術を知ることができます。和船模型は神様に願いを聞き届けてもらうために絵馬をより実物に近づけて奉納したものといえるでしょう。また,寄合町金比羅神社の拝殿に奉納されている「難破彫刻絵馬」には,嵐に遭って今にも難破寸前という船の前に金比羅の神様が現れて船を守っているというような彫刻が施されています。この迫力ある彫刻の作者は長谷川雲越という人で,石川雲蝶の弟子といわれています。
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(3)道楽稲荷と回る狛犬
稲荷町にある湊稲荷神杜は通称「道楽稲荷」と呼ばれています。この神社には新潟市有形文化財第1号に指定された回転する狛犬があります。狛犬の台座の中心には鉄棒があり,これを軸としてグルグルと回るようになっています。現在は、男の人なら右側,女の人なら左の狛犬を回転させると願いがかなうといわれています。
かって新潟湊が多数の廻米船でにぎわっていたころ,船頭相手の花柳町も栄えました・回転する狛犬は遊女たちがお参りをするときに,逆風祈願をするために回していたものだったといわれています。狛犬を自分の望む逆風の方向に向けて祈願したのです。上り船で西に行く船を止めるには,西風が吹き荒れるように狛犬を西に向け,下り船で東に行く船を止めるには,東風が吹くように東のほうに向けます。もし,順風が吹けば風待ちをしていた多くの廻船が港を出港して,湊は寂しくなってしまいます。船頭相手の遊女たちは少しでも船を引き止めるために狛犬をグルグル回して西に向けました。西風が吹けば信濃川の河口が荒れて出港できなくなるのです。もし願いがかなえられなかった時は,狛犬を台から落してもよかったそうで,そのために狛犬は丸くずんぐりしていて目鼻も可愛らしく欠損しにくく作ってあるようです。初代のものは願いをかなえなかったのか,宮前の堀に放り込まれて引き上げられなかったということです。2代目の狛犬は回されすぎたせいか心捧が痛んで,平成7年に3代目と交替し,現在神社内に宏置されています。逆風ばかり吹くと船が出港できず.荷主は困るばかりです。そんな時は一番堀の白山神社に順風祈願をしたといわれています。
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こんこん様
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(4)稲荷神社とコンコンさま
お稲荷さまにはいろいろな性格がありますが,商売繁盛のほかに倉庫を守る神様でもあります。新潟湊に長岡藩や新発田藩などの米蔵があり,それぞれに蔵を守護するお稲荷様が祀られていました。現在の新潟裁判所及び新潟市役所付近はかっては米蔵が並び,総称して濱倉と呼ばれていました。白山公園内の池の辺りから神武天皇の像の辺りまでは通称島倉と呼ばれる蔵があり,ここには塩や油,石炭などが収められていました。白山の濱倉と島倉は天領時代以前からありました。長岡藩の貯米蔵もこのあたりだったといわれています。そのため,貯米蔵鎮護のためにお稲荷様が祠られていましたが,明治5年に年貢が金納となって必要無くなった米蔵が取り壊されたため,お稲荷さまも開運稲荷神社に引き取られました。
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また,沼垂小学校のあたりには新発田藩の米蔵があり,鏡ヶ岡のあたりは以前「お蔵」といわれていました。こちらのお稲荷様は高砂稲荷神社といい,今も沼垂に鎮座しています。
開運稲荷神社の狐の石像は「こんこん様」といわれ,明治の始めに出雲の廻船問屋が米を購入するために新潟に入港した時に,空船の鍾に出雲石を積載し,その石で狐像を作り奉納したものです。このこんこん様の両足をなでて自分の額をいただくと,船員相手の花柳界の人,漁業,海運業,倉庫業に関係する人々の商売繁盛,諸願成就の願いをかなえるといわれています。
前述の道楽稲荷にも狐の石像があり,こちらの狐像は足をしばって放蕩息子、放蕩旦那,不貞な恋人の足を止めるまじないをするそうです。
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(5)浜に打ち寄せるもの 針歳暮
12月8日,または2月8日は1年間酷使した針に感謝する日で,「針供養」が行われます。昔は裁縫を習っている人や針の先生が,その日1日針を使わず,ちょっとしたごちそうを食べて過ごしました。最近では,畳屋さんが神社で畳針を豆腐にさしてお払いをしてもらっています。もともとこの12月8目,2月8目というのはコトヨウカといい,正月の榊蒙とコトの神様が交代する日という信仰があり,針供養もそのための忌み寵りの日と思われます。この日は八日荒れといって海が荒れ,海岸に「ハリフグ」とも呼ぱれる「ハリセンボン」という魚が打ち上げられるといわれていました。新潟ではこれを「針歳暮」と呼んでいました。
海が荒れた日の次の朝,浜にはいろいろなものが打ち上げられます。貝殻や海草のほか,海流に乗って運ぱれてきた韓国や中国のものと恩われる生活用品なども打ち上げられます。これだけいろいろなものを運んでくる海は,昔の人にとっては本当に不思議で、未知の世界と自分の世界とをつなぐ神秘なものと思っていたことでしょう。現在は浜辺でこれらを拾ったり観察したりすることを「ビーチコーミング」といい,気軽に誰でも挑戦することができる話題の研究方法となっています。
浜辺に打ち上げられるものの中に,ハリセンボンも含まれています。ハリセンボンの,ふくれて全身から針を突き出したような姿と針供養の信仰が相まって、ハリセンボンは海岸から拾われ,魔除けのために家の軒下につるされました。
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(6)浜茶屋と潮湯治
新潟では,海水浴の季節に海岸で開かれる茶店を「浜茶屋」と呼んでおり、海水浴客に飲食物を提供し,シャワー・更衣室・休憩・貸しボートなどのサービスを行っています。今は海水浴シーズンになるとどこも混み合います。かっては海水浴を潮湯治と言い表していました。
7月の土用の期間に丑の日があると,今でも「土用の丑の日」といって,ウナギを食べたりします。昔は「丑湯治」「丑湯」と称してドクダミやヨモギを入れた湯に入りました。農作業が今ほど機械化されなかった時代には,田植え後の一休みということで,農家の人たちの「丑湯治」で温泉地がにぎわいました。また,この目は「山から薬水が流れてくる」という伝承があり,川で水浴びをしたり海へいって泳いだりする風習がありました。湯治というのは温泉に入って療養するという意味がありますが,海に入る「潮湯治」には,潮垢離としての精進潔斎の意味があったようです。かっては新潟の浜にも潮湯治の人が集まり,丑の日の前夜は賑やかだったといいます。沼垂の人も信濃川を越えて浜まで歩きました。暗い町の中,海まで人の列が統き,その期間は浜茶屋も夜間営業をして,浜辺には明かりと暖をとるためのたき火がたかれました。昼には,農耕馬や農耕牛も潮湯治をさせたということです。丑の日の湯治は,七タ行事とも密接に関係があるといわれています。この行事が終わると八月の盆となります。
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(7)新潟祭りと湊元神社
享保11年,湊元神杜の祭典として始まった湊祭りは,「川開き」「商工祭」などを統合し,今の「新潟祭り」になったといわれています。現在祭り行列の中に登場する「御座船」は,湊元神社の祭礼に御輿がなかった時代に,巡行の中心となっていた葦船の名残りだといいます。その後,享保15年には新発田藩が作った松ヶ崎の堀割のために阿賀野川の水路が変わり,湊が後退しました。もともと湊元神社の祭礼が始まったのは,新発田藩領の沼垂地区で行われていた華やかな「沼垂祭り」に対抗したものだったようで,その後も湊元神社の祭りはにぎわいを見せましたが,明治5年に楠本県令の命により休止,明治22年に復活したときには昔ほどのにぎわいはなくなったといわれています。その後,明治42年には湊元神社が消滅しました。川開きは明治の半ぱ頃,鍵富氏を中心とする着手事業家が集まり,信濃川で舟遊びをしながら座興で花火をあげたのが始まりだったといわれています。大正3年に南部檜で大きな御座船が作られたのをきっかけに,当時の新潟市長・桜井市作氏が湊祭りと川開きを結びつけ,今の形になりました。水上渡御は昭和32年からで,御輿の沼垂入りには「かつて湊の争いをしていた沼垂と新潟が一つになった」という重要な意味があるのです。
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3 おわリに
新潟はよく「特徴のない町,他所から来た人に見せるところのない町」といわれます。長い年月の間に川幅が狭まり,砂浜が削られて港の様子は変わりましたが,新潟の下町には新潟が港を中心に栄えていたという名残りが残っています。たまに名残りの地を散歩し,湊町の栄えた昔を偲んでみませんか。
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〈参考文献〉
「日和山」南波松太郎/法政大学出版/1988
「あがたの息ぶき」東北電カ/1985
「にいがた湊祭」網干嘉一郎/野島出版/1967
平成11年度郷土史記録集 新潟の歴史を語る《第6号》
2000年2月22日新潟市郷土資料館発行に掲載されたものです。
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