イラスト 新潟市立黒埼中学校3年選択社会のみなさん
監修・文 高橋 郁丸
一 前九年の役
永承六(一〇五一)年、奥州(今の岩手県)で前九年の役という戦がおこりました。奥州の豪族安倍頼時という人が朝廷の権力にそむき、租税を払わなくなったのです。安倍頼時、息子の安倍貞任は康平五(一〇六二)年源頼義、義家父子によって討たれ、奥州の独立国家の夢は絶たれました。
安倍貞任の部下、安倍正任の息子に黒鳥兵衛詮任(くろとりひょうえのりとう)という少年がおりました。兵衛は敗戦の惨めさ、仲間を失った悔しさから、
「いつか朝廷に反旗をひるがえしてやるぞ」と心に誓いました。
二 黒鳥兵衛、魔術を身につける
兵衛は貞任の側女紅葉と子を護りながら鳥海山に逃げ込みました。鳥海山には兵衛のおじといわれる鳥海弥三郎を始め、山岳修行をする山伏たちがたくさんおりました。兵衛は山伏や、鳥海山を飛び交う天狗たちに兵術や魔術、天文や地理学を学んで兵をあげる時期をうかがっていました。兵衛は晴天に雨を降らせたり、炎天に雪を降らせたり、風を起こし、月を隠すほどになりました。
二十年後、奥州の豪族清原家衡という人が再び朝廷にそむき、後三年の役をおこしました。
黒鳥兵衛はこのときとばかり、集めておいた仲間達とともに都をめざして鳥海山を後にしました。そして湯殿山に入り、仲間を増やしていきました。都を目指して南下する途中、坂ノ下集落の鬼坂峠(山形県)というところがありました。そこには慈覚大師の作った延命地蔵があり、黒鳥兵衛を見ると「ここは通さないぞ」と大男に化けました。地蔵は黒鳥兵衛と激しく争い、
とうとう兵衛を追い出しました。鬼石というのはその争いの時に兵衛が投げた石です。兵衛が水を飲んだ清水は鬼清水と呼ばれ、清水を飲むときに兵衛が手をついたところには手形が残りました。
後に鬼清水は「安産清水」となって安産、子育てを祈る場所になりました。
三 黒鳥兵衛、新潟へ入る
黒鳥兵衛の手下はいとこの真鳥次郎政任、その舎弟の亀田三郎光任、仲のいい青鬼間道をはじめ、数百人になっていました。兵衛の集団は蛇の目に三本足のカラスの旗印を押し立て、越後に入ってきました。大人数で移動しますので、中には暴れだすものもおりました。食べ物を求めて田畑を荒らしたり、勝手に人の家へあがりこんで食べ物を奪ったりします。人々は恐れ、地元の有力者に救いを求めていました。
そのうち、兵衛は五十公野(新発田市)に、青鬼間道は住田(加治川村)に、横越軍治は横越(横越町)に、真鳥次郎は能代(五泉市)に、亀田三郎は亀田(亀田町)に、鳥屋野悪五郎は鳥屋野(新潟市)に、外ヶ浜牛兵は洲崎(新潟市)に、それぞれ城を築いてしまいました。
黒鳥兵衛は麒麟山(津川町)にも城壁を築き、阿賀野川の舟航を押さえて勢力を強大にしていきました。青鬼間道は遠隔地まで出向いて豪家を襲って金品を奪い、付近の住民に恩恵を施して家来を多く召抱えました。このころ実支配権を持っていた鳥坂城の城氏は秋田城介の貞成が陸奥の安倍頼時を攻めて大敗し、住田まで出兵する力がなくなっていたのでした。
鳥屋野悪五郎と女池頓蔵はとても力持ちで、築城のときに女池紫竹山方面から土のうにいっぱいの土をつめて運ぶ途中、こぼした土がそれぞれ小高い山となり、愛宕山、狐山、上山、下山、地蔵山、稲荷山、山王山、鎮守の神明様の山ができました。頓蔵が最後に作ったのは神道寺の諏訪神社の敷地でした。悪五郎がふんばった足跡に水がたまり、御手洗池ができたともいわれています。
四 羽生田周防守、桜井宗方、奮戦する。
越後入りした兵衛の軍はあっという間に弥彦に迫ってきました。金菅沢城(現田上町護摩堂山付近)の城主、羽生田周防守吉豊(はにゅうだすおうのかみよしとよ)と弥彦の庄長官の櫻井宗方(さくらいむねかた)はあわてて付近の農民を集め、応戦しますが無頼の軍には歯がたちません。
羽生田の守る金菅山城は、兵衛たちに囲まれて水の取り入れ口をふさがれてしまいました。城内では白米を山の上から滝のように流したり、馬に浴びせたりして水がたくさんあるように見せました。しかし、力がつきて、とうとう城は落城してしまいました。そのために、今でも護摩堂山山頂では焼け焦げた米が出てくるといいます。金菅山城が落城した日は九月九日だったので、九月九日の重陽の節句のときに田上町や新津市では落城を悼み、餅をつかない集落があったといいます。羽生田周防守はなんとか落ち延びましたが、羽生田の妻・秋篠は捕らえられてしまいました。鳥屋野悪五郎は秋篠の美しさにすっかりまいってしまい、自分の妻にしてしまいましたが秋篠は悪五郎に心を開きませんでした。
櫻井宗方は本名を吉川宗方といい、かつて都で源氏に従えていた武将でした。櫻井の城の周りには桔梗が咲いていたので城は桔梗城と呼ばれていました。櫻井は荒山城を築いて、戦いに供えました。そして、安倍氏の残党である黒鳥の討伐を、奥州征伐の総大将であった源頼義に訴えるべきか考えました。
黒鳥は弥彦や角田、竹野町を拠点に暴れた後、五十公野城に戻りました。羽生田と櫻井は羽生田のいとこ山本次郎左衛門泰氏が城主である出雲崎城まで逃げ、都に書状を出そうと相談しました。
五 援軍、北畠時定中将の越後入り
羽生田と櫻井、出雲崎城の山本は相談の結果、都の源頼義に大将軍の援軍を求めました。都の朝廷の命をうけた北畠時定中将は、一万二千騎の兵を連れて越後入りしました。
六 北畠時定の覚悟
北畠は国上村に城を築いて戦いますが、天神山城(岩室村石瀬)、弥彦の桔梗城や黒滝城などを、黒鳥軍に攻め込まれてしまいました。黒鳥の軍は亀田三郎を大将に、国上山の中腹に潜伏して盛んに毒矢を射て乱戦、三昼夜の戦いであれほどたくさんの兵を率いていた北畠の軍の敗色が明らかになってきました。
七 北畠時定と涙の愛馬
北畠は羽生田たちに佐渡に加茂次郎という有能な武将がいることを告げました。
「自分が死んだ後は加茂次郎に援軍を頼みなさい。私が書状を書くから、きっと届けるのだぞ」北畠はそう言うと書状を櫻井に託して、激戦の中へ飛び込んでいきました。そして北畠は討たれ、部下の者達もほとんど討ち死にしました。北畠の馬は主人の死んだことを悟ると、首を敵に取られまいと最後の力をふりしぼって遺体を乗せたまま小高い丘に登り、いなないて息絶
えました。
それで、北畠の遺体を埋葬し、持っていた守り本尊聖観音を安置したところは観音寺と呼ばれました。この聖観音は聖徳太子十八歳の時の作といいます。北畠の討たれたあたりを馬に乗って通ると馬が何かに驚いて立ち上がり、馬上の人が転げ落ちるため、村の人はここを「馬落とし」といって怖れました。そこで北畠の霊を弔うために地蔵尊を供養してからは馬が驚くこともなくなりました。
八 名将 加茂次郎義綱登場
羽生田、櫻井、山本は北畠の書状を持ち、佐渡にいる加茂次郎義綱に援軍を頼みました。義綱は源頼義の次男でありました。長男は八幡太郎義家、三男は新羅三郎義光といい、次男の加茂次郎義綱はわけあって父の怒りを受け、佐渡に流罪となっていました。そして勘気が許されても戦の場には連れてゆかれず、佐渡で流浪の生活を送っていました。しかし、その間もいつかは役に立てるのではないかと弓の練習をかかさずおこなっていました。羽生田たちの話を聞き、
「私で力になれるものならば、戦いに参加しましょう」。と立ち上がりました。
加茂は墨染めの衣から甲冑に着替え、重籐の弓とカリマタの矢を持って佐渡から出発し、寺泊に上陸しました。加茂と櫻井は討伐の作戦を練り、家臣を都から呼び集めたり、近郷の豪族を呼び集めて討伐軍を組織し始めました。加茂はしばらく弥彦の里に身を潜め、弓を作っていました。そのためその地を矢作と呼ぶようになりました。
九 壮絶!羽生田周防守戦死
羽生田は商人に化けて軍資金を運ぶ途中、三条西山の渡し場で鳥屋野と横越の軍に襲われました。羽生田は奮戦し、悪五郎を田の中へ転がし、軍治を押さえつけて逃げました。しかしこれで居場所が知られ、羽生田は射られて討ち死にしてしまいました。鳥屋野は羽生田の首を床の間に飾って戦勝の酒盛りを始めました。
鳥屋野は羽生田の首を秋篠に見せ、「どうだ、やつはあっけなく死んでしまった。俺がどれだけ強いかわかっただろう」と秋篠の気をひこうとしました。
十 秋篠と、どくろを祀る神社
秋篠は顔色を変え、「なんて気味の悪い。気晴らしに酒を飲みましょう」と鳥屋野を酒に誘い、鳥屋野は大喜びで応じました。そして秋篠はすっかり酔いつぶれた鳥屋野を寝室へ運ばせ、人がいなくなると鳥屋野の首をかき切りました。夫のあだ討ちをした秋篠は羽生田の首を抱え、周りの目を盗んで外へ逃げだしました。逃げる途中、夜が明けたところを「夜明」、橋が浮いていて渡れなかったところを「浮橋」と呼ぶようになりました。秋篠は羽生田の鎮守であった長橋(村松町)の羽黒神社の境内に羽生田の首を隠し、尼となって夫の首を祀りました。後に羽生田を慕った村人たちが八幡宮を建て、羽生田の首を祀っているといいます。かつては首を守るため、白ねずみのミイラもいっしょに祀っていたそうです。
十一 三条城落城。盤台島のたたり
三条左衛門は橘左衛門定明という人で、京都からやってきて三条城を築城しました。三条というのは定明の京都での思い出の地名でした。その三条城も兵衛との戦いの場となりました。兵衛は部下達に「城が落ちた」と言いふらさせました。信濃川を上り下りする船頭達はそのうわさを各地に広げていきました。都へ帰っていた三条左衛門の奥方が戻ってきた時に、信濃川近くで鬨の声を聞きました。
「あの声はなにかしら。いったい何事がおこったのでしょう」。奥方たちが船頭に聞くと、長岡の船頭は城が落ちていないのにもかかわらず、「黒鳥兵衛の軍に攻められて、もう、城は落ちてしまったよ」と嘘をつきました。奥方や姫、おつきの女性たちは「なんということでしょう。では、私たちにはいくところがありません」と絶望し、川に身を投げてしまいました。
実は鬨の声は三条城に下田の五十嵐小文治の援軍があったという声でした。奥方達の無念の思いが祟りとなって、長岡の船頭がそこを通ると船が沈むようになりました。このため、舟が盤台島を通る時には、どの船も「三条船だ」と叫びながら通るようになりました。
奮戦空しく、とうとう三条城は落ちてしまいました。敗戦は刀や槍が少なかったせいなので、三条の人は金物の大切なことを悟り、それ以後金物を作る町になりました。
十二 間瀬入道の苦しみ
良い城を築くため、地図を作るように命じられた黒鳥の家来の辺良木は周辺の地理の調査に出ました。羽生田討ち死にの後、金菅山城は羽生田の部下であった古井川左近が奪還して守っていました。左近のもとには分田七郎、三竹五郎、安田与市、柳橋六兵衛、牛崎右衛門などの一族が集っていました。分田、三竹は城を探っていた辺良木を見つけ、討ち取りました。
越後の武将が続々と加茂のもとに集まる中、有力な武将である間瀬入道看幽だけはやって来ませんでした。実は間瀬の娘は兵衛の妻となっており、間瀬は娘の身を案じて加茂のもとへ行けなかったのです。
その間瀬の使用人に、孫市という男がいました。孫市の父は孫左衛門といい、一ノ関で安倍貞任に従えていました。しかし、孫左衛門が功があるのを外ヶ浜牛平という男が恨み、射殺してしまいました。孫市の母は、わが子の命も危ういのではないかと感じ、間瀬の下へ身を寄せていました。外ヶ浜牛兵は、貞任が討ち取られた後に黒鳥について越後入りし、新潟町の洲崎に館を構えていました。孫市は牛兵の噂を聞き、夜中に牛兵がいる洲崎の館に忍び込んで父の敵の牛兵を討ち取りました。このことを孫市に打ち明けられた間瀬は、「こうなってはもう、黒鳥兵衛についているわけにもいくまい」と、加茂の傘下に入ることを決心しました。そして間瀬は加茂のために艦船大福丸を献じました。加茂は大福丸に乗って新潟へ向かい、蒲原の浦というところに陣を張りました。
十三 横越城、能代城落城
新潟に着船した加茂は古井川左近の千五百人の兵とともに川根谷内の近くにあった横越城を攻め落としました。横越軍治は「これはたまらん」と、女池頓蔵と共に逃げ出しましたが、羽生田を慕っていた田上村の農民たちはこの時を待っていたとばかり軍治を討ち取りました。頓増は堀に飛び込んで行方をくらましてしまいました。かつて頓蔵が悪五郎とともに信仰していた石仏山には石仏がたくさんありましたが、争いで石仏を痛めることを心配し、土の中に埋めたといわれます。これが現在の姥が山であるといわれています。
そのうちに能代城も落城、真鳥は部下の柄目木快作と共に逃げだしました。能代城は功のあった分田に与えられました(この分田の墓は玉泉寺にあります)。
各地の城を失った兵衛の兵たちは五十公野城に集結しました。能代城落城の知らせを聞いた兵衛は付近のハザや民家を壊して筏を作り、阿賀野川を渡ってきました。加茂は数百本の白旗や加茂大明神ののぼりを立てて戦いましたが、兵衛は魔術を使い、吹雪を呼んで加茂たちを翻弄しました。
十四 五十公野城、哀れなまつの最期
五十公野城の兵が残らず能代に出向いたので、城には男が少なくなっていました。間瀬は娘に会いたい一心で城を訪ね
ました。「私は兵衛の義父、間瀬看幽である。娘に会いに来た。娘をここへ呼んでくれ」。
看幽の娘・まつは父の気持ちを悟っていました。けれども自分はもう、兵衛の妻となっています。父のもとへ戻ることはむずかしいことと気づいていました。しびれをきらして娘の部屋へ駆けつけた看幽の目に飛び込んだのは、朱に染まった娘の姿でした。「お父様、これでも私は兵衛の妻。私を討てばお父様の手柄となります。どうか、加茂次郎様を助け、人々の平和を取り戻してください」。まつはそう言うと、息絶えました。まつは父の手柄とするために、短刀で自分の胸を突き、自害したのでした。
間瀬は悲しみをこらえ、「私は兵衛の義父、兵衛は能代城で討ち取られた。望むものがいたら加茂次郎の配下に入れるようとりなそう」と五十公野城の者をだましました。城内のものは間瀬に従い、金や米を青海山へ運んで五十公野城に火をかけました。この話を聞いた兵衛は、帰る場所を失なって動揺しますが、亀田三郎にはげまされて的場を根城と定めることにしました。
能代の戦いで加茂の軍は兵衛の軍に追われてしまいました。加茂と兵衛の軍が争った時に大風のため軍旗が切れて飛び、三里ほども離れた一本の銀杏にひっかかりました。それでその地を「切旗」(五泉市)と呼ぶようになりました。今は切畑といわれています。加茂が兵を引き上げる途中に鞭を落とし、ある農家(村松町)で鞭を借りようとしました。しかし、鞭と杵を聞き違えた主人が杵を渡しました。その家は加茂から杵鞭の姓を賜り、その家の若者は加茂の家来となりました。加茂はしばらく青海山別当長福寺で過ごし、住職の良任の世話になりました。そこへ天皇から使わされた勅旨が「兵衛を討ちなさい」という御綸旨(文書)が届き、兄八幡太郎義家からは父の勘気赦免の書状が届きました。加茂は戦いを終結させる決意を新たにしました。
十五 緒立城とカンジキの始まり
兵衛の住む緒立の城は的場潟(鯵潟)などの湿地や川に囲まれ、足場が悪く攻めにくいところでした。加茂は軍勢の少なさを隠すため、大松の枝々に笠をかけ、兵が大勢いるように見せかけました。この地を笠木(新潟市笠木)とよぶようになりました。加茂たちが攻めてきたことを知った兵衛は吹雪をおこし、加茂の軍勢を困らせました。
加茂は指を切り、血で兵衛平定の祈願書を書きました。そして弥彦神社と加茂神社に納めると不思議なことに雪が消えました。そして、弥彦山から白い鶴が二羽飛んできて小枝を数本沼地に落として上を歩いていきました。これを見て、加茂たちはカンジキを作ることを思いつき、湿地を歩くことができました。これは鶴による、弥彦大明神のご託宣であったのです。
十六 黒鳥兵衛現る
兵衛の部下、笹川逸平は兵衛の行いに疑問を持ち始めました。そして兵衛より加茂に人徳があると判断し、加茂に的場の湿地の浅瀬を教え、城内に手引きしました。逸平が加茂の味方となったため、住んでいた集落の人々も皆加茂につき、この地を「味方」と呼ぶようになりました。
逸平の城の根元にあたるところは城根といわれ、後に白根と書くようになったといいます。村上藩の大庄屋であった笹川家はこの逸平の子孫だともいわれています。
加茂たちはカンジキのおかげで深雪の中もぐんぐん進むことができました。大雪に安心していた兵衛たちは驚き、あわてました。真鳥、亀田を乱戦中に失った兵衛は討ち死にを覚悟しました。みんなの前に黒装束で現れた兵衛の姿は鬼神のようで、皆、たじたじとしました。
十七 黒鳥村の始まり
「兵衛、覚悟」。加茂は五人張りの強弓に大かりまたの矢をつがえました。ビュンと飛んだ矢は兵衛にあたり、ついに兵衛は倒れました。加茂が倒れた兵衛の首を切ると、死んだはずの兵衛の身体は矢を放ち、首は空高く飛んで雷鳴がとどろきました。
加茂の腹には矢が刺さりましたが、一心に祈ると弥彦山から鷲のような鳥が来て、兵衛の首をけり落としました。それで首の落ちたところが黒鳥村と呼ばれるようになりました。
十八 黒鳥八幡宮の始まり
兵衛のたたりを恐れた人々は兵衛の首を石びつに入れて塩漬けにして青木崎に、胴は角崎にと別々に埋めました。ところが毎晩首を埋めたところから「胴につきたい、胴につきたい」と泣き声が聞こえるので、村人は恐ろしさのあまりに首と胴を一緒に葬りました。すると泣き声はやみましたが、首塚に植えた榎がうなりました。そこで兵衛の冥福を祈り、妖術を封じ込めるために緒立八幡宮が建てられました。
しかし、秋の風雨の前など、神社の森のあたりから雷が落ちるような音がするようになりました。これを胴鳴りといい、昭和の始めまで聞くことができました。
十九 加茂次郎と青海神社
加茂は敵ながらも黒鳥兵衛たちの冥福を祈っていましたが、戦で受けた傷と長年の疲れから病の床に伏すようになり、加茂の西光寺で亡くなりました。加茂の墓は小貫山麓にあるといわれ、加茂の使った弓は青海神社のご神体として祭られています。
他の武者達は弥彦の観音寺の温泉に入り、傷を癒したといいます。観音寺温泉は今でも湯治の温泉地として有名です。古井川左近の子孫はその後古川と名乗るようになり、六社神社の神官古川右近は古井川の子孫であるということです。
二十 緒立温泉
時代は流れて江戸時代の文久三年(1863)の年に、ある娘が皮膚病にかかり医者にも見離されて苦しんでいました。ある日、娘は「緒立八幡の霊泉にひたれ」という夢を三晩続けて見ました。これは八幡様のおつげと思った娘は、母と共に緒立の地を訪れました。すると夢と同様の冷泉が湧き出ているではありませんか。娘がこの霊泉に三日間水浴すると病が治ったのです。この噂が広がり、村の人たちは八幡宮お授けの湯として湯治場を作りました。そこが緒立温泉になりました。
「長い長い間、私は苦しんでいました。かつて、私は戦さで多くの仲間を失い、いつかその恨みをはらすと心に誓ったこともありました。けれどもその思いは、新たな仲間をも失い、多くの人の血を流す空しいものでした。今、私ができることは、病に悩む人たちを癒すことです。さあ、この湯につかって苦しみから解放されてください」。
夕暮れの八幡宮を訪れると、風の音と共に兵衛の声が聞こえるような気がします。
《おわり》
イラスト担当 (新潟市立黒埼中学「3年選択社会」の皆さん)
林迪紀 森山萌 伊藤未恵 田中恵 中野嘉彦 山際佐織 監物雄祐 平田祐生 坂井拓美 那須野達矢 大橋奈都美 大谷友理香 那須野涼子 平田祐生 田代一也 平田祐生 伊藤裕顕 片山美里 石田唯 内海寿子 武田陽平 久住麻里絵 田中恵 大橋一輝 林里美 駒沢翔 前田由里香 鹿島亜紀 前田由里香 保苅友美 長谷川彩 槙口愛
黒鳥兵衛メモ☆☆☆
黒鳥の手下は他に「立山大膳」「黒山天魔兵衛」「沼垂軍蔵」「鳴滝入道」なども。
黒鳥兵衛の首。胴体は黒鳥に、首は新発田市西宮内鬼塚に埋められたとか、弥彦山の裏に埋められたなど、いろいろな説がある。新潟市小新では、海鳴りが北へ下がれば海が荒れ、西へ行けば晴れるといわれた。胴鳴りは松林が切られてから聞こえなくなったという。また、尼瀬の油田が掘られてから聞こえなくなったともいわれている。
☆☆残党たち☆
★青鬼間道
黒鳥の死後、青鬼間道という残党が住田の大天城(加治川村)に立てこもって抵抗していたが、加茂に討ち取られた。間道の埋められたところは鬼の墓(七社神社)といわれ、間道の兜を埋めたところを兜と呼ぶようになった。また、間道の妻、相模は北へ逃れようとし、横岡峠で藤の弦に足を取られ、ついていけなかった。相模は行く末を案じた間道に切られた。相模が切られた場所を相模切と呼ぶようになった。相模は横岡峠の藤をうらみ、「藤の花を咲かせない」と叫んで切られた。そのため、横岡峠では藤の花が咲かなくなった。相模は白鳥八郎と呼ばれた安倍則任の妻の妹であった。間道を討つ時、加茂が葦毛の馬に乗っていたので、住田の人は葦毛の馬に乗らなくなった。
★大蔵兵衛
逃れて七日町寺嶋(新津市)に潜入。ところが弥彦明神が大蔵に石を投げ、かかとにあたり怪我をする。大蔵はその怪我で命を落とす。大蔵は七日町の江端の湯という鉱泉で療養をしたが、治らずに死んでしまったという。弥彦明神のなげた石は「弥彦のつぶて石」と呼ばれている。
★藤塚
黒鳥の残党が追い詰められて首を切られた。ちょうど藤の花盛りで、首は藤の根元に埋められた。それでそのあたりを藤塚と呼ぶようになった。(紫雲寺町)
☆☆一般の受講者の方のお話☆☆
胴鳴りは海鳴りのような音だった。秋の終わり頃に良く鳴っていたと言う。緒立温泉は、できものの治療や傷に効くということで子どもの頃、親に連れて行ってもらった。今でも、入館する時は誰でもロビーの神棚に参拝をしてから温泉場に向かう。八幡様と黒鳥兵衛さんを敬っているのかもしれない。(泉井ヨキさん)
★老人福祉センター黒埼荘★
大字黒鳥で経営している頃から神棚があり、黒埼荘が新築されたときに移築した。黒埼荘の表示では、温泉開設は文久3年。現在、入館人数は毎日五百人くらいである。
あとがき
「黒鳥兵衛の絵物語を作ってもらえないだろうか」。ある日、五百川(いおかわ)清氏に声をかけられた。黒鳥兵衛といえば、知る人ぞ知る、伝説中の鬼神である。五百川氏はもう何年も黒埼町の生涯学習事業で「黒埼の歴史」〜その心を探る〜と題し、黒埼公民館と黒埼中学校の共同講座で歴史の話をなさっている。しかし、黒鳥兵衛は実在した実証がない。全く伝説の人なのである。
黒鳥兵衛の物語は「黒鳥縣緒立八幡宮縁起」「越後村名尽」など、江戸時代に書かれた書物で紹介されたことで有名である。しかし、その時に作られた創作ではないことは、各地に残る古記録などで証明されている。
さらに、各地に残る伝説。山形県にすでに黒鳥兵衛の登場する伝説が見られるということは、黒鳥兵衛が実在し、生きていたことの証明となるのではないだろうか。
今回、この絵物語を黒埼中学校のみなさんと一緒に作るにあたって、たくさんの黒鳥兵衛の物語や伝説をつなげてみた。とても大胆な作業であったが、この物語によって黒鳥兵衛の伝説に興味を持ち、郷土の先人たちが語り伝えていたことを思い出していただければ幸いである。
きっかけを作ってくださった五百川さん、黒埼教育事務所の佐藤作松さん、いろいろとご協力いただいた黒埼中学校の先生方、そして、すばらしいイラストをよせてくださった黒埼中学校のみなさん、本当にありがとうございました。
平成十三年十一月二十二日 高橋 郁丸
「絵草子黒鳥兵衛ものがたり」は平成14年1月21日BSNワイド545で紹介されました。
参考文献
「黒鳥兵衛伝説 越後黒鳥の乱」渡辺杢二著 平成六
鳥屋野潟出版
「黒埼町史通史編」黒埼町 平成十二
「黒埼町史資料編2近世」黒埼町 平成八
「黒崎町史資料編6民俗」黒埼町 平成九
「田上町ホームページ」
「弥彦村ホームページ」
「坂野下新発見の旅ホームページ」